儒效篇第八(6)

By | 2015年8月4日
ある人が、「孔子は、『周公は偉大である。その身が高貴となってますます恭しくなり、その家が富んでますます倹約となり、その敵に勝利してますます用心した』と言ったとか」と言った。私は、これにこう答えた、「それは、周公が行ったことにほとんど当てはまらないし、孔子が言った言葉とも思えません。武王が崩御したとき、子の成王(せいおう)は幼少でした。それで周公は成王をあえて退けて武王の統治を継承し、天子の地位を継承し、屏風を背にして坐し、諸侯は周公のいる堂の下で趨走(すうそう。家臣が主君の前で駆け足すること)の礼を行いました。この時期の周公を、いったい誰が恭しい態度だと言えますか?周公は天下全てを掌握して七十一の封建国を創立し、そのうち姫姓(きせい。周王室の姓)だけが五十三ヵ国を占めて、周王室の子孫は狂気惑乱の者でない限りすべて天下の大諸侯に封じられました。この時期の周公を、いったい誰が倹約だと言えますか?さて、彼の兄の武王が殷の紂王を討伐したいきさつを話しましょう。武王は兵を忌む凶日に行軍を始め、太歳(たいさい)(注1)に向かって東に進み、氾水(はんすい)にさしかかったときには川が氾濫し、懐(かい)の地に至ると道が壊れ、共頭に至ると山崩れが置きました。霍叔(かくしゅく)(注2)は恐怖して言いました、『行軍を始めてから三日で、五つの災いがありました。これは、討伐をやってはならないのではないですか?』と。しかし周公は言いました、『紂は、比干(ひかん)の胸を割いて箕子(きし)を幽閉し(注3)、飛廉(ひれん)と悪来(あくらい)(注4)に政治を行わせています。これを討伐してはならない、などということがありますか?』と。こうしてついに馬を整えて進撃し、朝に戚(せき)の地で食事を行い、暮に百泉(ひゃくせん)の地で宿営し、つづく早朝に牧(ぼく)の野で殷軍を制圧しました。殷軍に対して太鼓を打って攻撃したら、紂王の兵は攻めることをやめて逃亡を始め、ここに殷人の敗走に乗じて紂王を討伐しました。つまり、周人の兵が紂王を殺したのではなく、殷人がこれを見捨てて殺してしまったというわけです。なので、戦いの後には敗れた殷軍からは首級も捕虜もなく、勝った周軍には困難に奮戦したための恩賞もありませんでした。こうして武王の周軍は国都に戻り、三防具(注5)をしまい、五兵器(注5)を伏せて、天下を合一して、声楽を制定しました。ここにおいて武象(ぶしょう)が制定されて、韶護(しょうかく)はすたれていきました(注6)。四海の内の万民はことごとく心を変えて考えを改め、すべてが周王朝に教化されて恭順しました。それゆえ家の扉は閉められることもなく、天下からはすべての境界が撤廃されました。この時期の周公を、いったい誰が用心しているなどと言えますか?」と。


(注1)太歳とは、木星のこと。増注は、「太歳を迎えて之を伐たば、必ず其の凶を受く」と言う。
(注2)霍叔は、武王の弟。
(注3)比干・箕子は殷の王族で、紂王の迫害を受けた。議兵篇(5)注8参照。
(注4)飛廉・悪来(おらい、とも読まれる)は親子で、ともに殷の紂王の家臣。解蔽篇(2)注3参照。
(注5)原文「三革」および「五兵」。三種類の革製の防具と、五種類の兵器。三革について楊注は犀・兕(じ。水牛)・牛の説と甲・冑・盾の説を挙げる。五兵には諸説ある。栄辱篇(1)注1参照。
(注6)武象は、武王が殷を討った後に制定された音楽。韶護は、殷の音楽。猪飼補注は、周は六代の楽を兼用したので、この言葉は新楽が起こって古楽がおのずから廃れたことを言う、と注している。
《原文・読み下し》
客道(い)える有りて曰く、孔子曰く、周公は其れ盛なるかな。身貴くして愈(いよいよ)恭しく、家富みて愈儉に、敵に勝ちて愈戒む、と。之に應じて曰く、是れ殆(ほとん)ど周公の行に非ず、非孔子の言に非ず。武王崩じて、成王幼なり。周公成王を屏(しりぞ)けて(注7)武王に及(つ)ぎ、天子の籍を履(ふ)み、扆(い)を負いて坐し、諸侯堂下に趨走(すうそう)す。是の時に當りてや、夫れ又誰か恭と爲さんや。天下を兼制し、七十一國を立て、姬姓獨り五十三人に居る。周の子孫、苟(いやし)くも狂惑ならざる者は、天下の顯諸侯と爲らざるは莫し、孰(た)れか周公を儉なりと謂わんや。武王の紂を誅するや、行くの日兵忌(へいき)を以てし、東面して太歲(たいさい)を迎え、汜(はん)(注8)に至りて汎(はん)し、懷(かい)に至りて壞し、共頭に至りて山隧(お)つ。霍叔(かくしゅく)懼れて曰く、出ずること三日にして五災至る、乃ち不可なること無からんか、と。周公曰く、比干(ひかん)を刳(こ)して箕子(きし)を囚(とら)え、飛廉(ひれん)・惡來(あくらい)政を知る、夫れ又惡(いずく)んぞ不可なること有らんや、と。遂に馬を選(ととの)えて進み、朝に戚(せき)に食し、暮に百泉(ひゃくせん)に宿し、旦(あした)に牧(ぼく)の野に厭(あつ)し(注9)、之を鼓して紂の卒鄉(むか)うところを易え、遂に殷人に乘じて紂を誅す。蓋し殺す者は周人に非ず、殷人に因るなり。故に首虜の獲無く、蹈難(とうなん)の賞無し。反(かえ)りて三革(さんかく)を定(や)め(注10)、五兵を偃(ふ)し、天下を合して、聲樂を立つ。是に於て武象(ぶしょう)起りて韶護(しょうかく)廢せられ、四海の內、心を變じ慮を易(か)え以て之に化順せざること莫し。故に外闔(がいこう)は閉じず、天下に跨(また)がりて蘄(き)(注11)無し。是の時に當りてや、夫れ又誰か戒を爲さんや、と。


(注7)「屏」字を「しりぞく」と読む。儒效篇(1)注3参照。
(注8)集解の盧文弨・王念孫は「汜」は「氾」に作るべし、と言う。「氾」は川の名。
(注9)原文「厭旦於牧之野」。集解の兪樾は、「厭旦」はまさに「旦厭」に作るべきであり、「厭」は読んで「壓」となすべし、と言う。つまり、早朝に牧(ぼく)の野で殷軍を制圧した、と解する。これに従う。
(注10)楊注は、「定」は「息」と言う。やめる。
(注11)集解の劉台拱は、「蘄」は「圻」と同じと言う。「圻」は境界のこと。

ここは、正論篇のスタイルを踏襲して、異論に対する荀子の反論が置かれている。いったい荀子は、何の異論を斥けようとしているのであろうか?それは、聖人である周公の治世は完全であり、完全な治世においては敵は絶滅するために、為政者は正しい政治を行うだけで天下は完全に安定する。ゆえに、一切の警戒は必要ないのだと言いたいのである。荀子は聖人が天下の頂点に立つ統一帝国の治世を完全無欠な政体と想定するために、このような反論を行うのだ。もとより聖人の治世の下でも人間の欲望が消えることはありえず、法に違反する者が絶えるわけでもない。しかしそれに対しては、各人の能力に応じて身分と禄が比例的に与えられるために欲望は秩序づけられて、法に違反する者には厳罰が正しく施行されるので秩序は保たれる、と言うであろう。詳細な叙述は、正論篇に表われている。

荀子は、聖人の治世をこのように完全に合理的に運営される国家システムとして想定する思想家である。現代にこれを読む者にとっては、その限界は明らかであろう。その限界を持った思想家として、批判するところは批判して、その上で現代人にとっても啓蒙されるところを救い出して読まなければならない。

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