議兵篇第十五(1)

By | 2015年4月18日
臨武君(注1)が、荀子(孫卿子)(注2)と兵について趙国の孝成王の前で討論した。

(趙王)「兵法の要点をうかがいたい。」
(臨武君)「上は天の時を得て、下は地の利を得て、敵の変動を観察し、敵よりも後に進発して敵よりも先に戦場に着く。これが、兵法の要の戦術です。」(注3)
(荀子)「そうではありません。それがしの聞くいにしえの道では、用兵攻戦の根本は人民の心を一つにすることにあります。弓矢が整わなければ、羿(げい。伝説上の弓の達人)もまた小さな的に当てることができず、馬が和しなければ、造父(ぞうほ。周代の名御者)もまた馬車を遠くに駆ることができません。士民が親しんで従わなければ、殷の湯王・周の武王もまた必ず勝つことができません。ゆえに、人民を従わせる者が、よく兵を用いる者なのです。よって兵法の要点とは、よく人民を従わせるところにあるのです。」
(臨武君)「そうではありません。用兵において尊ぶべきことは、勢と利です。行うべきは、変と詐です(注4)。よく兵を用いる者は、迅速かつ隠密に動き、どこから現れるか知られない者です。孫子・呉子(注5)はこれを用いて天下に無敵でした。どうして人民が従うことを待つ必要がありましょうや?」
(荀子)「そうではありません。それがしの申していることは、仁の人の兵です。王者の志です。あなたの尊ぶことは、権謀であり勢利です。あなたの行うことは、攻奪であり変詐です。これらは、諸侯のやる事です。仁の人の兵は、騙すことができません。騙すことができる兵は、怠慢にして疲労した兵だけです。君臣・上下の間がばらばらに離れている国だけです。ゆえに、桀(伝説の悪王)が桀を騙すのであれば、それを上手にやるか否かで勝てるかもしれません。しかし桀が堯(伝説の聖王)を騙そうとすることは、たとえるならば卵を石に投げることであり、指で沸騰した湯をかきまわすことです。水火の中に入るようなもので、これを行えば焼かれるか溺れるかです。仁の人は総軍の将帥となって力を同じくし、上下の心は一つにまとまるのです。家臣が君主を見ること、下が上を見ることは、子が父に仕え、弟が兄に仕えるがごときであり、手と肘が頭と目を守って胸と腹を覆うがごときとなります。これを騙そうとして襲撃するのは、事前に警告してから叩くのと一緒であり、反撃されて痛い目を見るのは相手です。なおかつ仁の人が十里四方の国を治めるときには、百里四方から情報が集まってきます。百里四方の国を治めるときには、千里四方から情報が集まってきます。千里四方の国を治めるときには、これはもう天下全体から情報が集まって来るのです。よって仁の人は、必ず明察に警戒します。人民が付き従うこと、一つのようになるのです。ゆえに仁の人の兵は、集まれば卒(五人分隊)を作り、散れば行列を作り、延びれば莫邪(ばくや。春秋時代の名刀匠)の長刀のようになり、これに触れた者は斬られます。その鋭さは莫邪の切っ先のようになり、これに当たった者は壊滅します。円陣を敷いて静止すれば磐石のように固く、これに触れた者は砕け散ります。こうして敗れて憔悴した果てに、撤退するしかないのです。かつそもそも暴虐な国の君主は、いったい誰とともに戦うのでしょうか。本来彼のところには、自国の人民が集まってくるはずです。だが彼の人民は、もはやこちらの国の君主に親しみ喜ぶことが父母のようであり、こちらの国の君主を好むことが椒蘭(しゅくらん)の香りのようであり、いっぽう自国の君主をかえりみれば、焼きごて・入れ墨の刑罰を受けるかのように、仇讎(かたき)であるかのように忌み嫌い、もはやこの国の人民の人情としては、たとえ桀・盗跖(とうせき)クラスの極悪人であったとしても、憎い自国の君主のために大好きなあちらの国の君主と戦うことなど、もうありえません(このくだりは、王制篇にも出てくる)。これは、子や孫にその父母と戦わせるようなものです。敵国からは、必ず情報が入ってきます。どうして騙すことができるでしょうか。ゆえに、仁の人が国に用いられたならば日ごとに名声が挙がり、これに先に従う諸侯は安泰で、後から従う諸侯は危険となり、これに敵対することを企む者は領地を削られ、これに実際に敵対する者は滅亡するのです。『詩経』に、この言葉があります:

武(たけ)き王、旆(はた)をおし立て
つつしみて、鉞(まさかり)を持つ
火のごとく、烈烈たりて
あえて遏(とど)むる、者とてあらず
(殷頌、長發より。王とは殷の湯王のこと)

ゆえに湯王の軍は、この言葉のようであったのです。」
(孝成王・臨武君)「よい話だ。」


(注1)臨武君と孝成王については、下のコメント参照。
(注2)本篇は、荀子を「孫卿子」と称している。この称号については、年表・地図ページを参照。
(注3)天の時と地の利を考慮するべきことは、『孫子』始計篇。地形についての考察は、同地形篇および九地篇。戦場に先着することの利は、同虚実篇にある。
(注4)勢については、『孫子』勢篇。変と詐については、同虚実篇、軍争篇など。
(注5)呉子は呉起。戦国時代初期の兵法家・政治家。魯国・魏国で将軍として勇名を馳せ、楚国で政治家として法家思想に基づいた改革を行ったが、庇護する楚王の死後に彼の改革によって既得権益を奪われた貴族たちの恨みを買って惨殺された。
《原文・読み下し》
臨武君、孫卿子と兵を趙孝成王の前に議す。王曰く、兵の要を請い問う。臨武君對(こた)えて曰く、上天の時を得て、下地の利を得て、敵の變動を觀、之に後れて發し、之に先んじて至る。此れ兵を用うるの要術なり。孫卿子曰く、然らず。臣が聞く所の古の道は、凡そ用兵攻戰の本は民を壹(いつ)にするに在り。弓矢調はざれば、則ち羿(げい)も以て微に中(あ)つること能わず。六馬和せざれば、則ち造父も以て遠に致すこと能わず。士民親附せざれば、則ち湯武も以て必ず勝つこと能わず。故に善く民を附する者は、是れ乃ち善く兵を用うる者なり。故に兵の要は善く民を附するに在るのみ。臨武君曰く、然らず。兵の貴ぶ所の者は埶利(せいり)なり、行う所の者は變詐なり。善く兵を用うる者は、感忽(かんこつ)(注6)悠闇(ゆうあん)にして、其の從(よっ)て出ずる所を知ること莫し。孫吳之を用いて天下に敵無し、豈に必ずしも民を附するを待たんや。孫卿子曰く、然らず。臣の道(い)う所は、仁人の兵にて、王者の志なり。君の貴ぶ所は、權謀・埶利なり、行う所は、攻奪・變詐なり、諸侯の事なり。仁人の兵は、詐(たばか)る可からざるなり。彼の詐る可き者は、怠慢なる者なり、路亶(ろたん)なる者なり。君臣上下の間、滑然(かんぜん)(注7)として離德有る者なり。故に桀を以て桀を詐るは、猶お巧拙幸有り。桀を以て堯を詐るは、之を譬(たと)うるに、卵を以て石に投じ、指を以て沸を撓(こう)するが若し、水火に赴くが若し。焉(ここ)に入れば焦沒(しょうぼつ)せんのみ。故に仁人は三軍に將たりて、力を同じうし、上下心を一にす(注8)。臣の君に於けるや、下の上に於けるや、子の父に事(つか)え、弟の兄に事うるが若く、手臂(しゅひ)の頭目を扞(まも)り、胸腹を覆うが若くなり。詐りて之を襲うは、先(ま)ず驚かしめて而る後に之を擊つと一なり。且つ仁人の十里の國を用うれば、則ち將(まさ)に百里の聽有らんとす。百里の國を用うれば、則ち將に千里の聽有らんとす。千里の國を用うれば、則ち將に四海の聽有らんとす。必ず將(は)た聰明・警戒して、和傳(わふ)(注9)すること一の而(ごと)し。故に仁人の兵、聚(あつま)れば則ち卒を成し、散れば則ち列を成し、延なるは則ち莫邪(ばくや)の長刃の若く、之に嬰(ふ)るる者は斷ち、兌(えい)(注10)なれば則ち莫邪の利鋒の若く、之に當れば潰(つい)ゆ。圜居(えんきょ)して方(まさ)に止まれば(注11)、則ち盤石の若く然り、之に觸(ふ)るる者は角摧(かくさい)し、案(すなわ)ち[角](注12)鹿埵(ろくた)・隴種(りょうしょう)・東籠(とうろう)(注13)して退くのみ。且つ夫れ暴國の君、將(は)た誰と與(とも)に至るや。彼其の與に至る所の者は、必ず其の民なり。而(しこう)して其の民の我を親しむや、歡父母の若く、其の我を好むや、芬椒蘭(しゅくらん)の若く、彼其の上を反顧すれば、則ち灼黥(しゃくげ)の若く、讎仇(きゅうし)の若し。人の情、桀・跖と雖も、豈に其の惡む所の爲に、賊其の好む所の者を賊するを肯んずる又(あ)(注14)らんや。是れ猶(なお)人の子孫をして、自ら其の父母を賊せしむるがごときなり。彼必ず將に之を來り告げんとす。夫れ又何ぞ詐る可けんや。故に仁人用いらるれば國日に明なり、諸侯先ず順う者は安く、後に順う者は危く、之に敵することを慮(おもんぱ)かる者は削られ、之に反する者は亡ぶ。詩に曰く、武王發(はい)(注15)を載(た)て、有(また)虔(つつし)みて鉞(えつ)を秉(と)る、火の烈烈たるが如し、則ち我を敢えて遏(とど)むること莫し、とは此を之れ謂うなり。孝成王・臨武君曰く、善しと。


(注6)「感」を集解の郝懿行は「撼」のごとしと言い、「撼忽」はすばやい意。
(注7)「滑」を集解の王引之は「渙」と読むべきと言い、「渙然」は溶けて離れる意。
(注8)原文「仁人上下、百將一心、三軍同力」。増注は「仁人」の下に必ず誤りがあると言い、あるいは「仁人將三軍、同力、上下一心」であるかと言う。一応これに従う。
(注9)増注は、「傳」は「傅」とするべきで、「附」と同じ意と言う。
(注10)「兌」を集解の盧文弨は「鋭」と読むと言う。
(注11)各本は「止」字を「正」とする。楊注は「方止」を取って不動の時、と言う。
(注12)「角」字を増注の冢田虎および集解の劉台拱は衍字と言う。
(注13)楊注は「その義未詳、けだし皆摧敗披靡(さいはいひび)の貌」と言う。敗れて憔悴した様子であるか。
(注14)増注は「又」は「有」と読むと言う。
(注15)『詩経』テキストでは「發」は「旆」となっている。旗のこと。

【この篇は、「王制篇第九」の後に読んでいます。】

議兵篇は、趙の孝成王(在位BC265-BC245)と後で述べる臨武君の前で荀子が議論したこと、弟子の李斯と陳囂(ちんごう)の質問への返答、そして総括から成る。「強い兵とは何か?」という議論である。儒家の荀子は、戦争のことはあまりよく知らないようだ。述べられているのは「理想の政治とは何か?」という議論の延長上にあり、戦争に勝つための技術である兵法をよく理解しているようには見えない。

孝成王は、確かに荀子の活動時期に在位していた趙国の王である。荀子は趙国の出身であったが、主に活動したのは斉国であった(年表・地図を参照)。王の在位中のどこかの時点で、荀子は祖国に遊説に出かけたのであろう。この議論がいつ成されたのかは明確ではないが、私は長平の戦(BC260年)の前のことであろうと推測する。長平の戦は中国戦国時代最大の合戦の一つで、秦軍と趙軍が決戦して趙軍の惨敗に終わった。『史記』の記すところによれば、勝った秦軍は負けた趙軍の兵40万人を穴埋めにして殺したという。この合戦の直接の原因は、韓国が放棄した上党(じょうとう、山西省)の地を秦国が取るか趙国が取るか、を巡っての争いであった。しかしその背後の要因は、戦国諸侯で最強の力に成長していた秦国と、武霊王(在位BC326-BC298)の軍制改革以降に軍事大国として力を増した趙国との間で、中華を支配する勝者を決める決戦が不可避であったところにあった。かつての中華の覇権国であった魏国と斉国はこの頃すでに勢いを失い、南蛮の大国楚国は秦に圧迫されて国土を削られ、都を東に遷さざるをえなくなっていた。秦国の前に立ちはだかる大国は趙国ただ一国であり、長平の戦の決着が中華の勝者を決定したのであった。ここから後は秦国に始皇帝が現れて他の六国を併合する作業が残っているだけとなった。

長平の敗戦の後、趙国は都を秦軍に包囲されて窮地に陥った。魏の信陵君が義によって率いた救援軍の活躍で包囲が解かれた後も、趙国はもはや長平以前の国力を取り戻すことはできなかった。だがこの孝成王との議論で荀子は、秦国は強力であるが春秋時代の覇者である斉の桓公・晋の文公よりも弱い、などと言っている。秦に敗れた後の発言とは、とても思えない。なので、長平の戦よりも前に、来る秦軍との決戦に向けて諸子百家たちの議論を王が募集したところに荀子が論じたことの記録であろう、と私は推測する。

ここで孝成王の前で荀子と討論している相手は、臨武君と呼ばれる。この人物の詳細は、よく分からない。楊注は『戦国策』に現れる同名の楚将を引用して、この人であるかと疑っている。楊注はまた、劉向の『荀卿新書』劉向校讎叙録に荀子が「趙に至り、趙孝成王の前に孫臏(そんぴん)と兵を議す」と記載されていることに対して、これは年代的に疑わしいと斥けている。(孫臏は紀元前341年ごろに活動していた兵法家である。『孫子』を書いたとされる孫武の孫と伝えられる。前世紀後半に、彼じしんの兵法書である『孫臏兵法(仮称)』が中国で出土した。)しかしながら臨武君が陳述する兵法はまさしく『孫子』からの引用であり、兵法の知識を持った人物であったことは窺える。『孫子』は当時の兵法を論じる者ならば暗記するのが標準であった。

私はこの議兵篇を読む限り、荀子は戦争のことが分かっていないと思う。孫子が兵の破壊力は「勢」をコントロールすることによって作るべし、と説いたのは全く正論である(※)。いっぽう、荀子の言うように君主の仁義が士気を高めることなどは、およそ戦場においてはありえない。荀子は礼法を重視する持論に沿って、整った軍法・合理的な軍編成をこれから後に述べ立てるが、それは兵家こそが最も重視する項目であって、荀子だけが言っていることではない。荀子が仁の人の兵だから陣形を作れば強いのだ、などと言うが、とんでもない。合理的な兵法に従ったから強いのである。兵の一人一人が自律的に勇戦する国民軍は、確かに強い。しかしながら中国のように専制国家が農民から徴発した兵は、自律的に戦うことはできないのである。前近代で兵の一人一人が自律的に戦う軍は、ギリシャ・ローマの市民軍あるいはモンゴル・満州のような遊牧狩猟の戦士集団であった。これらは少数であっても、敵対するペルシャ軍や中国軍が装備優良な大軍であったにもかかわらず、圧勝した。それは、上からの指令に従って手足を動かすことしかできないマニュアル軍を、兵の一人一人が自律的に考えて勇戦する戦闘集団が打ち破った事例であった。荀子の仁の人の兵は理想としては美しいが、当時の中国の実情を全く無視した空想論である。だから中国では、兵を動物とみなしてこれを組織化して動かすマニュアルである兵法が発達したのである。

(※)付記:孫子の「勢」は烏合の衆を目的のために働かせる組織運営術として興味深い手法であると私は考えるが、それが何であるかを探求するのはこのサイトの目的ではないので割愛します。


荀子は堯を騙すことはできない、などと言っているが、戦争の歴史から言えば噴飯ものの空想である。戦争とは、両者の力にさほどの差がない場合においては、錯誤が少ない方が勝利する。錯誤しないほうが、ではない。錯誤は、不確実な情報しか得られない戦場においては、必ず起こるのである。ゆえに、兵家は相手の予想を裏切り錯誤を誘うために、変詐・詭道を戦場で使うのである。戦場での戦術(タクティクス)について言えば、荀子の議論は空想である。

ただ兵家の視野が戦争技術のことだけに向いているのに対し、儒家の荀子は国家全体の制度にまで目が向いている。国家の平時における優良な政治が基礎的な国力を高め、国に対する忠誠心を醸成し、いざ戦争になったときに長期的な軍の強さと士気の高さにつながる、という視点は、全くその通りである。国家の戦略(ストラテジー)について言えば、荀子のほうが兵家よりも一日の長がある。

戦争の真の浪費は、完全な情報の不足による錯誤に起因する。近年の番組によれば(NHK『その時歴史が動いた』)、日露戦争で乃木希介は旅順要塞攻略戦の早期の段階で旅順港にいるロシア東洋艦隊がすでに発艦できる状態にないことを、現地に赴いて得た情報から判断していたという。それゆえ乃木は多大な犠牲が出ることが予測できた旅順要塞の占領を急ぐことはないと日本の大本営に上申したのであるが、大本営は乃木の現地情報に確信が持てず、旅順港から東洋艦隊が出撃してヨーロッパから来襲するバルチック艦隊と挟み撃ちになればわが連合艦隊に勝ち目はないと憂慮し、旅順要塞の早期占領を乃木に命令した。やむなく乃木は旅順要塞の強襲占領作戦を行い、結局は占領したのであるが、その犠牲は甚大であった。番組の紹介する近年の研究では、乃木の判断は正しかったという。ならば、旅順要塞攻略戦の意義は全く大本営が情報を確信するため、それだけのための犠牲であった。

『孫子』は「兵は国の大事なり、死生の道、存亡の道なり」と言う。戦争は事前の計算どおりにはいかない不確実性を持ち、よって国を傾けかねない大事件である。ゆえに不確実な未来に向けて最善の情報を収集する努力を行い、動くときには相手の予想の裏をかく戦術によって可能な限り有利な情勢を作らなければならない。戦争の全てが明知の君主によって最も能率的に実行される、と思い込んで語る荀子のような論者は、実際の戦争を語る資格はない。荀子一門はどうやら一通りは兵法も研究したようであるが、兵法の本質である戦術論を軽視して自らの礼法論の中に解消してしまっている。これは、平時から戦時を語る論法である。情報の不確実性がある世界を対象とするときには、完全な情報が入手できることを前提とした論理は正論に見えて実は的外れとなる。荀子は、平時の政治経済の戦略レベルの議論だけに参加するのが正しい。

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