彊国篇第十六(2)

By | 2015年4月26日
荀子が、斉国の宰相に説いて言った。
「人に勝つ権勢を持ち、人に勝つ道を行って、しかも天下がこれを怒らなかったといえば、湯王・武王がそうです。人に勝つ権勢を持ちながら人に勝つ道を用いず、天下を保有する権勢を厚く持ちながら庶民として生きることを望んでもかなえられない(注1)のは、桀王と紂王です。ならば、人に勝つ権勢を持っていることは、人に勝つ道を行うことに遠く及ばないというものです。君主・宰相とは、人に勝つために権勢を使われるものですが、しかしながら、是を是とし、非を非とし、能を能とし、不能を不能とし、おのれの私欲を斥けて、必ずや万民が共有できる正道と正義に従うことこそが、人に勝つ道なのです。今、宰相閣下は上は主君を思い通りに動かすことができて、下は斉国を思い通りに動かすことができます。まことに閣下は、人に勝つ権勢を持っておられます。ならば、どうしてお持ちの人に勝つ権勢を用いられて、人に勝つ道を行かれないのですか?仁に厚く諸事に明るい君子を求めて王を補佐せしめ、これらとともに国政を執り、是非を正されたならば、国の者で義をなさない者はありえないでしょう。君も臣も、上も下も、貴人も賎者も、年長も年少も、庶民に至るまでみな義を必ず行うようになれば、天下すべてが斉国の義に合流することを望むでしょう。賢明の士は閣下の朝廷に参ることを願い、有能の士は閣下の官となることを願い、利を好む人民ですらも斉国の住民となりたいと必ず願うようになるでしょう。しかしながら、閣下はこの道を捨てて顧みない。ただただ、世俗の行う方策を取られるだけだ。王の妃妾どもは、後宮で国政を乱している。詐臣どもは、朝廷を乱している。貪欲な官吏どもは、官庁を乱している。人民どもは、皆利を貪りこれを争奪することを日常としている。こんなことで、国を維持していけましょうや?いま、巨大な楚国が面前に広がっているではありませんか。燕国が、背後から迫っているではありませんか。強力な魏国が、右翼(注2)から噛み付いて来ているではありませんか。西の国境は、今や細い縄のようなもので、いつ破られるか分かりません。また楚人は襄賁(じょうひ)・開陽(注3)を持ってわが左翼に対峙しています。これは、このうち一国がはかりごとを用いたならば、三国は必ずこぞって斉国の隙に乗じてくるでしょう。こうなってしまえば、斉国は必ず四分五裂してしまうことでしょう。斉国が、にわか仕立ての城のように崩れ去ってしまうしかありません。必ずや、天下の物笑いとなるでしょう。閣下、人に勝つ道と世俗の行う方策と、いったいどちらを選ばれるのでございますか?」

そもそも桀王と紂王は、聖王である禹と湯王の子孫であり、天下を保有する家の末裔であり、勢威ある地位にあった天下の宗室であった。その土地は千里四方もあり、臣民の数は億万をもって数えた(注4)。なのに、あっという間に天下は目が覚めたかのように桀・紂の下を去って湯・武の下に走り、手の平を返すように桀・王を憎んで湯・武を貴んだ。これは、どうしてであろうか?かの桀・紂は何を失って、湯・武は何を得たのであろうか?
これは、他でもない。桀・紂は、人が憎むことをさせれば名人であった。湯・武は、人が好むことをさせれば名人であった。人の憎むこととは、何であろうか?それは、人を誹謗することであり、人と争って奪うことであり、利をむさぼることである。人の好むこととは、何であろうか?それは、礼義であり、謙譲の精神であり、忠信の心である。いまどき、人の君主たるものは、己をたとえるときには湯・武と並び立つことを望んでいる。しかしその統治のしかたは、桀・紂と何ら変わりはない。それなのに、湯・武の功名を立てたいと望んで、それが許されるであろうか。ゆえに、およそ勝利する者とは、必ず人民とともに歩むものなのである。およそ人民の支持を得る者は、必ず正道とともに歩むものなのである。正道とは、何であろうか?それは、礼義、謙譲の精神、忠信の心なのである。ゆえに、人口は四、五万程度いれば必ず勝てるのである。人口の力が興隆の道なのではなくて、興隆の道は信頼にあるのだ。領地は、百里程度あれば必ず安泰なのである。領地の大きさが興隆の道なのではなくて、興隆の道は誠実にあるのだ。いま人口数万を持っていながら他人を誹謗したり他人にへつらったりする姑息な策で勢力を拡大しようと争い、また領地は数百里ありながら誹謗や抜け駆けの姑息な策を用いて土地を拡大しようと争うならば、これはいわば自分が強くて安泰となるべき道を自分で放棄して、自分が危険で弱くなるべき道を争って選び、自分が足りずに増していかなければならない信頼と誠実を減らして、自分があり余るほどに持っている人口と領地を増やしているようなものである。これほどまでに、間違っている。なのに湯・武の功名など、許されるだろうか。たとえるならば、うつぶせで空を舐めようとするようなものであり、首吊りから助けようとして足を引っ張るようなものである。絶対にうまくいかないだろう。努力すればするほど、湯・武の功名から遠ざかっていくだろう。人の家臣となった者が、己の理想の政策が行われないことを憂うこともせず、いやしくも利を得るのみであるならば、これはいわば、落とし穴に落ちた車で仕事をさせようとするようなものである(どんなに優秀な機械でも、状況が悪くては前にも後ろにも進まない)(注5)。これは、仁の人ならば恥じてなさないことである。人は生きながらえるよりも尊きはなく、安泰であることよりも楽しいことはない。命を永らえ、安泰を楽しむためには、礼義を選ぶより効果の大きなものは、ないのである。人が命を永らえ、安泰を楽しみたいと思うにも関わらず礼義を捨てるならば、これをたとえるならば長寿を欲しながら喉を切って自害するようなものである。これほどまでに、愚かなことはない。ゆえに人の君主たる者は人民を愛することによって安泰となり、士を好んで栄え、そしてこの両者がなければ滅ぶのである。『詩経』に、この言葉がある。:

よき民は、み国の藩(まがき)
天子の師は、み国の垣(かきね)
(大雅、板より)

この言葉が、理想なのである。


(注1)古代中国での独特の言い回し。天子は王朝の天命が尽きれば社稷を返上し、王朝を終わらせてその一族は庶民に帰る。そうするから許してくれ、と言っても許してくれない、という意味。天皇家が交替したことがない日本人には分かりにくい。
(注2)原文「右」。王は南を向いて座るので、右は西方のこと。
(注3)楊注は、東海郡にある楚の二都市と言う。本ページ下の地図で、斉の南部の楚領のあたり。
(注4)この数はさすがに荀子の時代においては誇張しすぎであるが、前漢代末期に当たる紀元2年の帝国総人口は59,594,978人であり、以降明代まで中華帝国の人口数は各王朝のピーク時において、国家が把捉している人口数おおよそ6000万人前後で推移した。ここに戸籍外の人間を足したならば、中華帝国の最大人口数は1億弱であったと総括してもあながちまちがいではない。この人口の天井は、清代になって新大陸から能率の高い作物が導入されたときに突破された。
(注5)原文を意訳した。下の注14参照。
《原文・読み下し》
荀卿子齊相に說いて曰く(注6)、人に勝つの埶(せい)に處(お)り、人に勝つの道を行いて、天下忿(いか)ること莫きは、湯・武是れなり。人に勝つの埶に處り、人に勝つの道を以(もち)いず(注7)、天下を有するの埶に厚くして、匹夫爲(た)らんことを索(もと)むるも得可からざるなり、桀・紂是れなり。然らば則ち人に勝つの埶を得る者は、其の人に勝つの道に如かざること遠し。夫(か)の主相なる者は、人に勝つに埶を以てするなり。是を是と爲し、非を非と爲し、能を能と爲し、不能を不能と爲し、己の私欲を併(しりぞ)けて、必ず以て夫の公道・通義の以て相兼容(けんよう)す可き者に道(よ)る、是れ人に勝つの道なり。今相國上は則ち主を專(もっぱら)にすることを得、下は則ち國を專にすることを得、相國の人に勝つの埶に於ける、亶(まこと)に之有り。然らば則ち胡(なん)ぞ此の人に勝つの埶を敺(か)りて、人に勝つの道に赴き、仁厚・通明の君子を求めて王を託し、之と國政に參し、是非を正さざるか。是の如くなれば、則ち國孰(たれ)か敢て義を爲さざらん。君臣・上下、貴賤・長少、庶人に至るまで、義を爲さざること莫くんば、則ち天下孰(たれ)か義に合するを欲せざらん。賢士は相國の朝を願い、能士は相國の官を願い、好利の民は齊を以て歸と爲すことを願わざること莫けん、是れ天下を一にするなり。相國是を舍(す)てて爲さず、安(すなわ)ち直に為是の世俗の爲す所以を爲さば、則ち女主之が宮に亂り、詐臣之が朝に亂り、貪吏之が宮に亂り、衆庶・百姓は皆貪利・爭奪を以て俗と爲す、曷(なん)ぞ是の若くにして以て國を持す可けんや。今巨楚は吾が前に縣り、大燕は吾が後に鰌(せま)り、勁魏(けいぎ)は吾が右を鉤(こう)し、西壤の絕えざること繩の若し。楚人は則ち乃(また)(注8)襄賁(じょうひ)・開陽を有(たも)ちて以て吾が左に臨む、是れ一國謀を作(な)せば、則ち三國必ず起りて我に乘ず。是の如くなれば、則ち齊必ず斷たれて四三と爲り、國は假城(かじょう)の若く然る(注9)のみ、必ず天下の爲に大笑せられん[曷若](注10)。兩者孰(いず)れか爲すに足るや。
夫の桀紂は、聖王の後子孫なり、天下を有する者の世なり、埶籍(せいせき)(注11)の存ずる所なり、天下の宗室なり。土地の大は、封內千里あり。人の衆は、數うるに億萬を以てす。俄(にわか)にして天下倜然(てきぜん)として舉(みな)桀紂を去りて湯武に犇(はし)り、反然として舉(みな)桀紂を惡(にく)んで湯武を貴ぶ。是れ何ぞや。夫(か)の桀紂は何を失いて、湯武は何を得るや。曰く、是れ它の故無し、桀紂なる者は善く人の惡む所を爲すなり、湯武なる者は人の好む所を爲すなり。人の惡む所は何ぞや。曰く、汙漫(おまん)・爭奪・貪利是れなり。人の好む所は何ぞや。曰く、禮義・辭讓・忠信是れなり。今人に君たる者、譬稱(ひしょう)・比方(ひほう)せば則ち自ら湯武に並ばんことを欲す。其の之を統(す)ぶる所以の若きは、則ち以て桀紂に異なること無くして、湯武の功名有らんことを求む。可ならんや。故に凡そ勝を得る者は、必ず人と與(とも)にするなり、凡そ人を得る者は、必ず道と與にするなり。道なる者は、何ぞや。曰く、禮義・辭讓・忠信是れなり。故に四五萬自(よ)りして而往(じおう)なる者は强勝なり、衆の力に非ざるなり、隆は信に在り。數百里自(よ)りして而往なる者は安固なり、大の力に非ざるなり、隆は脩政(しゅうせい)(注12)に在り。今已に數萬の衆を有する者や、陶誕(ようたん)(注13)・比周して以て與(よ)を爭う。已に數百里の國を有する者や、汙漫・突盜して以て地を爭う。然らば則ち是れ己の安强なる所以(注14)を弃(す)てて、己の危弱なる所以を爭い、己の足らざる所以(注14)を損じて、以て己の餘有る所以(注14)を重ぬ。是の若くに其れ悖繆(はいびゅう)なり、而(しこう)して湯武の功名有らんことを求む、可ならんや。之を辟(たと)うるに、是れ猶伏して天を咶(ねぶ)り、經(くびくく)られるを救いて其の足を引くがごときなり。說必ず行われず、愈(いよいよ)務めて愈遠し。人臣爲る者は、己が行の行われざるを恤(うれ)えず、苟(いやし)くも利を得るのみなるは、是れ渠衝(きょしょう)穴に入りて利を求むる(注15)なり、是れ仁人の羞じて爲さざる所なり。故に人生より貴きは莫く、安より樂しきは莫く、生を養い安を樂しむ所以の者は、禮義より大なきは莫し。人生を貴び安を樂しむことを知りて禮義を弃つるは、之を辟うるに、是れ猶壽を欲して歾頸(ふんけい)するがごときなり、愚焉(これ)より大なるは莫し。故に人に君たる者は、民を愛して安く、士を好んで榮え、兩者一無くして亡ぶ。詩に曰く、价人維れ藩、大師維れ垣、とは、此を之れ謂うなり。


(注6)「荀卿子說齊相曰」の七字は宋本にあって元本にない。猪飼補注は、ここだけが「荀卿」であって『荀子』の他の箇所では「孫卿」と言及されているところから、これは宋人の追加であろうと言う。増注は、もしこの七字がなければ、前の文が公孫子に対する荀子の言葉であったのに、ここ以降の文もまた斉相への荀子の言葉なのに冒頭に何もないと前の文の末尾から切れた流れにならないので宋本どおりにする、というような意味のことを言っている。
(注7)楊注は、「以」は「用」であると言う。
(注8)集解の兪樾は、「乃」は「又」の誤りであろうと言う。
(注9)増注には「然」字がない。
(注10)集解の王念孫は、この二字は衍字と言う。
(注11)「埶籍」について集解の王念孫は、籍は位に同じと言う。勢威ある地位。
(注12)集解の王念孫は「政」は「正」である、と言う。富国篇(4)の「脩正」と同じ。
(注12)栄辱篇において集解の郝懿行は、「陶誕」はすなわち「謠誕(ようたん)」であり毀謗誇誕、と言う。栄辱篇(2)注7参照。
(注14)増注は宋本によって三箇所に「以」字を加える。
(注15)渠衝(きょしょう)は城攻め用の大車。「渠衝穴に入りて利を求む」を直訳すれば、「大きな車が穴の中に入ってなお利を求める」ということであるが、意味は各注釈者で微妙に異なるも大筋は、使えない状態にありながら利を求めることはできない、という意味に取っているようである。現代的に言うならば、落とし穴に落ちた車はどんなに速度を出すことができても走れない、とでもいうべきであろうか。それっぽく意訳した。

いま底本としている『漢文大系』では、上のくだりで一節としている。ここは斉国の宰相への言葉であるが、もとよりそれがそのまま収録されたわけではなくて、後世に編集したものである。金谷治氏は全てが宰相への言葉、というように訳してある。ここから後に秦の応候范雎(はんしょ)との問答があるのだが、その前にイントロとして秦を批判する文章がある。上のくだりもそうではないか、と考えて、前半は斉の宰相への言葉、後半はアウトロとして斉を批判する文章、とみなして現代語訳とした。

ではこの問答は、いつ行われたのであろうか?

荀子の生年は、不明である。『史記』において、荀子が「五十歳になって、はじめて斉にやって来て遊学した」「斉の襄王(じょうおう)の時には荀卿は最年長の老師となっていた」と記載されている情報が鍵である。斉の襄王は、BC280年からBC264年まで在位した。もし荀子が襄王の最後の年に初めて斉国に遊学し、そのとき五十歳であった、と考えたならば、荀子の生年はBC314年前後ということになるであろう。荀子はその後斉国を去って、楚国の春申君の下で蘭陵という地の令(れい、長官)となった。その春申君はBC238年に暗殺され、荀子は令を解任されたが、その後も蘭陵に留まった(『史記』)。したがって、荀子は少なくともBC238年には活動していた。いまもし荀子の生年をBC314年とするならば、荀子はこの時点で七十六歳ぐらいである。『史記』の書きぶりから見ると荀子はその後もしばらくは蘭陵に居住していたようであるから、八十代ぐらいまで生きていた、と考えたならば常識的な長寿の範囲となるだろう。これがどうやらもっとも流布している荀子の生没年説のようである。

しかしながら、以上は荀子が襄王の最後の年に初めて斉国に遊学した、ということを前提にした考証である。襄王の在位期間の中途の頃に荀子が斉国で活動していた、ということにすれば、荀子の生年はより早くにずれるだろう。『史記』の記述を読むと、むしろそう取ったほうがよいと私は考える。五十歳で初めて来訪した荀子がその年のうちに斉国の最長老の老師(史記原文「最爲老師」)となった、というのは少々無理がある。もっと前から斉国の学者サークルで活動していた、と考えたほうがよいだろう。この考えと整合性を持たせる説としては、『史記』の「五十歳」という記述を「十五歳」の誤りであるとみなすものがある。荀子関係の一部の書籍には、荀子の経歴について斉国に初めて遊学したのが「十五歳」と書かれていることを根拠とする。しかし重澤俊郎氏も指摘するように、これは疑わしい。「十五歳」は『史記』のオリジナルの記述を後世の者が転記したものに違いなく、その時過失かあるいは意図的に書き換えたものであると思われる。

そして、ここでの荀子の斉国に対する発言の内容である。これはいつの時代のことであるか、文中では明言されていない。
しかしながら、これは襄王の前の代である湣王(閔王)末年の頃の斉国を取り巻く国際情勢を指している可能性がある。一応当時の情勢を、説明したい。

この頃の斉国は、周囲をとりまく諸国の対斉連合軍によって攻撃される寸前であった。BC288年斉は南にある宋国へ侵攻し、BC286年に宋の偃王を殺した。宋国は領地は大きくなかったが、領内に豊富な藪沢を保有して富裕な国であった。斉の野望は宋を併合してさらに楚国の淮水以北を征服し、国力を拡大することであった。当時活動していた縦横家の蘇代(そだい)は、斉のこの作戦が成功したら斉の領土は倍となると警告して、諸国連合で斉を潰そうと遊説したものである。

このとき燕国の王は昭王であり、王は楽毅(がくき)を亜卿(あけい)に任じて軍事と外交を担当させていた。楽毅は斉が強大で周辺諸国から憎まれているのを見て、これらを合従させて対斉連合軍を作ることに成功した。BC285年、燕・魏・楚・秦・趙・韓の連合軍が楽毅の指揮のもとで斉軍を破った。楽毅の燕軍はさらに進んで斉国の都を陥落させ、五年の間に斉国の七十余城を降してこれを燕に併合させたのであった。斉国は、莒(きょ)・即墨(そくぼく)の二城を除く全ての城を楽毅に奪われてしまった。斉の湣王は敗走して、逃げ込んだ莒で殺された。ここで斉国は滅亡の瀬戸際に追い込まれたのである。

これは、かつて斉国が燕国に侵攻して併合を試みた仇への、昭王の意趣返しであった。かつて斉国は、燕の王が家臣に国を譲るという事件に続いた燕国の内乱に乗じて、侵攻したのであった(BC314年)。このとき斉王に燕への侵攻を提議したのは、儒家の孟子であった。その経過は、『孟子』梁恵王章句下および公孫丑章句下に詳しく書かれている。ただしこれらは孟子の側が書いた言い訳の文章であり、一貫して孟子は悪くない、悪いのは斉王とその家臣たちである、ということにしている。併合の目論見は大失敗に終わり、斉国は撤退し、抵抗軍を率いた昭王が新たな燕王に即位した(BC313年)。孟子は斉国にいられなくなったのであろう、斉国の客卿の位を捨てて本国の魯国に帰った。

昭王は侵略者である斉国への復讐を誓い、賢人を招くために身を屈して士にへりくだった。このときに魏国からやって来たのが、楽毅であった。昭王と楽毅は、斉国に攻め込む機会を長々と待った。ついに斉国が宋を滅ぼし、楚からも領地を奪う作戦に出たときが、機会であった。斉王は南方の作戦に気を取られすぎて、背後から襲撃される危険をおろそかにした。この機会に乗じて、楽毅は斉国に侵攻したのであった。斉王は単独で諸国全てを相手にするだけの国力がないにも関わらず、諸国から土地を奪って力を示すばかりであり、天下全てを敵としてしまったのであった。さきほどの王制篇における偽りの「強者」であり、「覇者」として諸国に信用を与えることができなかった。というよりも戦国時代になるとかつての「覇者」はすでに時代遅れとなっていて、各国はひたすら他国を併合して領地を拡大するばかりの弱肉強食の時代に移っていた。斉王は時代のとおりに行っただけであったが、ただ後の秦国ほどの圧倒的な国力がなかった。斉国と秦国を分けたのは単に国力の差にすぎず、仁義の有無ではない。

しかし、斉国は滅びなかった。即墨の城を死守していた将軍の田単が、反撃に出た。『史記』によると彼は城内から千余頭の牛を集めさせて、これらの角には刀を付け尾には火の付いた葦束をくくり付けて、夜陰に乗じて城内の穴から燕軍に向けて放った。火を嫌って逃げる牛の群れは燕軍を斬り付け、その後に斉軍が打って出た。燕軍は壊走し、燕の将軍は捕らえ殺された。いわゆる火牛の計により、即墨の戦は斉軍の大勝利となった。田単は逃げる燕軍を追撃して斉国の都市を回復し、斉都も奪回して旧の領土を取り戻した。BC280年には襄王が後を継いで即位し、斉国は復興したのであった。即墨の戦のとき、すでに楽毅は昭王の死後に替わった恵王によって将軍を解任され、王に誅罰されることを恐れて趙国に亡命していた。即位したばかりの恵王は、楽毅が即墨を陥落させずいまだに斉国に留まっているのは、自らが斉で自立して斉王となろうとしているからだ、という流言を信じた。それゆえの楽毅の解任であったが、この流言は楽毅を除くために田単が燕国に流した策略であった。先代より度量が落ちた恵王は、まんまと踊らされたのであった。こうして斉国は復興したが、かつて東帝を名乗って覇者の気概を見せていた斉国の力が元に戻ることは二度となく、以降は鳴かず飛ばずで秦国が他の国を亡ぼすのを傍観しながら、BC221年に始皇帝によって最後に併合された国となった。

説明を終えて荀子に戻るが、上に訳出した箇所で荀子が述べている斉国の情勢は、BC285年の直前の時期のものと考える必要がある、と私は考えたい。

  • 荀子が斉国の政策を厳しく批判していること。これは湣王の時代の政策への批判、と考えたほうがよい。
  • 力任せに領地を拡張しようとする政策が、湯王・武王の道から遠いと指摘していること。これは湣王の路線であり、襄王の時代にはすでにこのような力は斉国にはなかった。
  • 楚国と燕国の脅威を強調していること。湣王の末年、楚国は斉国と交戦状態であり、燕国は対斉包囲網の中心である。
  • 漢代の書物である『塩鉄論』にも、斉が湣王の末年に斉を去った、という言及があること(注)。
(注)鹽鐵論、巻二、論儒「湣王に及びて…南は楚・淮を舉(あ)げ、北は巨宋を并(あわ)せ…功を矜りて休まず、百姓堪えず。諸儒諫めるも從わず、各(おのおの)分散す。慎到・捷子亡去し、田駢薛に如(ゆ)き、孫卿楚に適(ゆ)く」(原文:及湣王…南舉楚・淮、北并巨宋…矜功不休、百姓不堪。諸儒諫不從、各分散、慎到・捷子亡去、田駢如薛、而孫卿適楚)。『塩鉄論』において、湣王が楚に侵攻して宋を併合するなど功を矜って休まず百姓が堪えず、諸儒が王を諫めたが王は従わなかったので各人は斉を去った、とある。その去った者の中に、慎到・田駢たちいわゆる稷下先生(史記孟子荀卿列伝を参照)とともに荀子(孫卿)が挙げられている。



以上によって、これは湣王末年の時代において荀子が斉国で行った発言ではないか、と考えたい。だとすれば荀子の生年はそれよりも50年前、すなわちBC335年より前ということになってしまう。重澤俊郎氏はこの彊国篇の記述と『塩鉄論』の記述を合わせて、荀子の生年を通説よりもずっと早くに繰り上げている。もしそれが本当であるならば、荀子は最低でも九十七歳ごろまで生きていて、おそらく百歳以上の異例の長寿であったということになるだろう。ちょっと信じがたいが、そう結論づけるしかない。

もっともこれは『史記』の記述が正しい、ということを前提とした考証であって、『史記』の記述が誤伝であった可能性は否定できない。荀子が五十歳で斉に遊学したのは実は最初ではなく、若い頃に最初に斉国に現れて湣王の末年に宰相に謁見したがここを去り、襄王の代となって再度斉国に現れて本格的に学究活動を行った、というのが真実であったとすれば、荀子の生没年はもっと常識的なものとなるであろう。しかしながら、そのための証拠はない。

荀子は、(証拠はないが、おそらく若い頃のことであろうと私は思う)斉国が征服戦を成功させたその直後に諸国から袋叩きに合って滅亡寸前に陥った様を、つぶさに見ていた。その実体験から、王制篇に見える「強者」「覇者」「王者」の三者の論が発展したのだろう、と私は考える。斉王は、偽の「強者」であった。ゆえに諸国を敵として、一転直下殺される末路となった。そこから荀子は、斉のような偽の「強者」は天下を取れない、ということを確信したのであろう。斉王は数百年前に自国を「覇者」に押し立てた桓公・管仲のようになることを、夢見ていたはずである。しかし、桓公・管仲は斉王よりももっと上手であったゆえに、「覇者」として成功したのであった。荀子の「強者」と「覇者」の比較は、斉王と桓公・管仲とを比較して、前者が失敗して後者が成功した、その原因を考察するところから練られたのであろう、と私は考える。その分析は、これまで見たように非常に的確である。

さらに荀子は、自らの「強者」論を、彼の晩年の秦国にも当てはめた。この彊国篇の斉国批判の後には、秦国批判が続いている。これは秦国もまた斉国と同じく偽りの「強者」である、と位置づけて、秦国はこのままでは斉国と同様に滅亡するであろう、と言いたいのである。だが、彼の予想は外れることとなった。秦国の国力は斉国を大きく上回っていて、もはや単独で天下統一が可能であった。なおかつ秦国には、斉国にはない官吏と人民の美風があって、それが国の基礎的な強さを供給していた。荀子は秦国を実際に見聞したときに、おそらく秦国は斉国とは違うことに気づいたであろう、と私は考える。しかしかといって、彼の築いた歴史観を捨て去るわけにはいかなったことであろう。偽の「強者」は滅び、「覇者」は諸国を安定させ、「王者」は天下を統一する、というのが荀子の歴史観であった。その歴史観を維持するために残された道は、秦国が偽の「強者」から「王者」に生まれ変わるのを期待することであった。

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