このような説を立てる者がいる、「荀子(孫卿)(注1)は孔子に及ばない」と。これは、間違っている。荀子は乱世に苦しめられて、厳刑に脅かされて、上には賢明な君主もなく、下には暴虐の秦国の侵略に遇い、礼義は行われず、教化は成らず、仁者は追い詰められて逼塞し、天下は暗黒となり、行い正しい者は批判され、諸国は急速に衰えていた。このような暗い時代にあっては、知者ですら国家に熟慮を行うことができず、能ある者ですら国家を統治ができなくなり、賢者ですら下の者を使うことができなかった。ゆえに上に立つ君主は心を蔽われて賢者を正しく見て選ぶことができず、その賢者は各国で拒まれて受け入れられなかった。なので荀子は過去の聖人たちの行為を慕う心を持ちながら、表面は狂人を偽り、天下には愚者の姿をあえて見せたのであった。『詩経』に、この言葉がある。:
荀子は、明哲ゆえに身を保ったのである。ゆえに荀子の名声は明らかでなく、門徒は多くなく、功績は光輝くことがなかった。今どきの学ぶ者たちは、荀子の遺した言葉と教えを学んだならば、これを天下の法規・標識となすことができるだろう。その教えが据えられた土地は治安が整い、その教えに遇う機会を得た土地は教化されていくであろう。荀子の善行を見るに、孔子ですらこれを凌駕しない。なのに世の中はこれを理解せず、荀子は聖人でないと言う。これはいったい、どうしたわけであろうか?荀子の時代に天下が治まらなかったのは、荀子が時を得なかったからなのだ。徳は堯(ぎょう)・禹(う)のようであったのに、世の中は荀子を知る者は少なく、荀子の学説は用いられず、人々はその学を疑うに至った。だが荀子の知はきわめて明察であり、正道を修めて行いを正し、よって彼の学は社会の綱紀とするに足りる。ああ、なんという賢人であろうか。荀子こそ、帝王の座に就くべき聖賢であった。なのに天地はこれを知らず、桀(けつ)・紂(ちゅう)のような邪悪な君主に味方して、賢良の人を殺すのである。比干(ひかん)(注2)は胸を割かれて殺され、孔子は匡(きょう)で抑留され(注3)、接輿(せつよ)は世を避け(注4)、箕子(きし)(注2)は狂人を偽った。だが田常(でんじょう)(注5)は乱を起こして斉国を乗っ取り、闔閭(こうりょ)(注6)は策謀を用いて強大な力をほしいままに振舞うことができたのであった。じつに悪をなす者が福を得て、善なる者がわざわいを受ける、間違った時代であった。今どきの「荀子は孔子に及ばない」という説を立てる者たちは、荀子の学の内容をよく洞察しもせずに、その名声の低さだけを信じてこのようなことを言うのである。荀子は、活動していた時代がよき聖代でなかった。これで、どうして名誉を得ることができただろうか?荀子は、政治を行うことができなかった。これで、どうして功績を挙げることができただろうか?荀子は、志をよく修めた、厚徳の人であった。その実際を知ったならば、これを賢人でないと言うような人は決していないだろう。 (注1)原文「孫卿」。議兵篇(1)注2参照。
(注2)比干・箕子は紂王に迫害された殷の王族。議兵篇(5)注8参照。 (注3)孔子の諸国遊説時代のころ、孔子は陳に向かおうとして匡(きょう)という都市を通過しようとしたとき匡人に捕らえられた。孔子の容貌が、かつて匡に狼藉を働いた陽虎(ようこ)に似ていたからだという。孔子は衛国に助けを求めて、ようやく脱出することができた。 (注4)論語微子篇に、楚の狂接輿として現れる。狂人を偽り世を避ける隠者で、乱世を治めようと無駄な遊説をする孔子を諌めたという。 (注5)春秋時代末期の斉国の大夫。主君の簡公を殺して、斉国の実権を全て掌握した。田常の子孫は戦国時代初期に斉国の君主の位を簒奪し、よって戦国時代の斉国は田斉(でんせい)とも呼ばれる。 (注6)春秋時代末期の呉国の王。伍子胥(ごししょ)、孫武(孫子)を重用して呉国を強大化し、楚国を破って滅亡寸前にまで追い込んだ。荀子は春秋五覇の一に数えている。越王勾踐(こうせん)との戦いで傷つき、それが元で死んだ。 |
《原文・読み下し》 說を爲す者曰く、孫卿は孔子に及ばず、と。是れ然らず。孫卿は亂世に迫せられ、嚴刑に鰌(せま)られ、上に賢主無く、下に暴秦に遇い、禮義行われず、敎化成らず、仁者は絀約(くつやく)し、天下は冥冥として、行全きも之を刺(そし)り、諸侯も大いに傾く。是の時に當りてや、知者も慮(おもんぱか)ることを得ず、能者も治むることを得ず、賢者も使することを得ず。故に君上は蔽われて覩(み)ること無く、賢人は距(こば)まれて受けられず。然れば則ち孫卿聖を懷(おも)うの心を將(もっ)て(注7)、佯狂(ようきょう)の色を蒙り、天下に視(しめ)すに愚を以てす。詩に曰く、旣に明且つ哲、以て其の身を保つ、とは、此を之れ謂うなり。是れ其の名聲白(あきら)かならず、徒與(とよ)衆(おお)からず、光輝博(ひろ)からざる所以なり。今の學者、孫卿の遺言・餘敎を得れば、以て天下の法式・表儀と爲すに足らん。存する所の者は神(おさ)まり(注8)、遇(あ)う(注9)所の者は化す。其の善行を觀るに、孔子も過ぎず。世詳(つまびらか)に察せず、聖人に非ずと云うは奈何(いかん)。天下治まらざるは、孫卿時に遇わざればなり。德は堯・禹の若きも、世之を知るもの少く、方術用いられず、人に疑わるる所と爲る。其の知は至明にして、道を脩め行を正し、以て紀綱と爲すに足る。嗚呼賢なるかな、宜(よろし)く帝王と爲るべし。天地知らず、桀・紂を善として、賢良を殺し、比干(ひかん)は心(むね)を剖(さ)かれ、孔子は匡(きょう)に拘(とら)われ、接輿(せつよ)は世を避け、箕子は佯(いつ)わり狂い、田常は亂を爲し、闔閭(こうりょ)は强を擅(ほしいまま)にす。惡を爲すものは福を得、善なる者は殃(わざわい)有り。今の說を爲す者は、又其の實を察せず、乃(すなわ)ち其の名を信ず。時世同じからず、譽(よ)何に由りて生ぜん、政を爲すことを得ず、功安(いずく)んぞ能く成ならん。志脩まり德厚し、孰(たれ)か賢ならずと謂わんや。 (注7)宋本原文は「將懷聖之心」。集解の盧文弨は、「將懷聖」は「懷將聖」の誤り、と言う。漢文大系もこれに従い「懷將聖」とする。盧文弨に従えば、「將(まさ)に聖たらんとするの心を懷(いだ)き」と読むことができて、意味は「荀子は自らが聖知を得ようとする心を抱いていた」、となるだろう。この文は弟子が書いたものであるから、荀子を持ち上げてそう書いたのだ、と考えることは、後に続く師への誇大な持ち上げ方から見て賛同したい心にもなる。しかしながら原文のままで読んでも意味は通るのであり、わざわざ変える必要はないと私は考える。増注および新釈の藤井専英氏は、原文を変えていない。
(注8)議兵篇(4)注5を参照。 (注9)宋本原本は「遇」。集解の盧文弨は「遇」は「過」の誤りと言い、漢文大系もこれに従い「過」とする。理由は、議兵篇(4)注5にあるように、議兵篇や孟子に見えるテキストでは「過」字だからである。しかしながら藤井専英氏も指摘するように、必ず「過」字でなければならない理由はないと思われる。ここは上に訳した文脈から見ても、宋本の「遇」字に戻したほうがよいと考える。 |
楊倞校訂注『荀子』の末尾に置かれた堯問篇は、最後に荀子を賛える文章が置かれている。楊注は、「或は荀卿弟子の辞ならん」と末尾に注する。おそらく、その通りであろう。楊倞が堯問篇を『荀子』の末尾に置いた理由は、『論語』の末尾が堯曰篇第二十であることと平仄を合わせようとしたのではないだろうか。上の堯問篇末尾の文は、『荀子』全巻の締めくくりとしてふさわしい文章となっている。
上の賛によると、荀子はその高い学問に関わらず、その生涯は栄光もなく不遇であったという。迫害されたというのは、斉国で讒言に会って去ることを余儀なくされたことを指すのであろうか。また秦国の暴虐に遇ったとあるが、始皇帝の六国征服はBC230年の韓滅亡に始まり、荀子の生国である趙国の滅亡は翌年のBC229年(残存政権の代国はBC222年に滅亡)、荀子が最後に定住した楚国の滅亡はBC223年であった。上の文の秦国のことが始皇帝の征服作戦を述べているとするならば、荀子はこのあたりまで生存していたということになるだろう。上の文において、荀子は孔子に勝るとも劣らず、帝王となるべき賢人であったと称えられている。もとより弟子たちが自己の学派を宣伝するために師を誇張して高く持ち上げる意図が、入っていたはずである。しかしながら、彼の学問が高いものであったことは、この『荀子』全巻を読めば自ずから理解できることであろう。
荀子は礼楽の大家であり、名文家であり、言語思想家であり、来るべき中華帝国の統治システムを叙述しきった社会政治思想家であった。その学問は孔子から始まった儒家思想が孟子に伝えられて、その孟子を批判的に継承して、儒家思想に内在する民本思想と人間中心主義を極限まで推し進めたものであった。孟子の「民を貴しとなし、君を軽しとなす」の民本思想は、荀子において社会契約説に行き着き(富国篇)、統治能力の卓越した聖人だけが君主の座に着くことができる、という思想に到達したとき世襲制は事実上放棄された(正論篇)。孔子の「怪力乱神を語らず」に見える超自然的諸力の存在をあえて憶測しない不可知論、孟子の「殀寿貮(たが)わず、身を脩めて以て之を俟(ま)つ」に表れる運命を気にせずなすべきことを全うすべきであるという自律的精神は、荀子により天の現象は人間の行為と無関係であり、人間の政策だけが人間の生活を向上できる、という天から自律した人間中心主義となった(天論篇)。だが荀子は、聖人・君子が国家の指導的地位に立って人民を制御する、という孔子・孟子ら儒家思想家の身分秩序観もまた、忠実に継承した。そのために、身分高い者のぜいたくを批判する墨家思想に対しては、身分格差・経済格差を肯定する立場から激しい批判を浴びせかけた(富国篇)。荀子の性悪説は、人間の「性」が利己的衝動に突き動かされる存在であり、「偽」を身に付けて善的存在となった聖人・君子だけが自然状態の争乱を鎮めて秩序を作ることができる、と論じた点で、社会契約説を裏付けて儒家思想の身分秩序観を補強するための議論であったと言うことができる(性悪篇)。論理によって王者の優位性を証明しようとする荀子は、その過程で覇者の強者に対する優位性を論証し、王者=世界を統一する法治官僚国家なき諸国分立の世界においては、覇者=ヘゲモニー国家が国際的信用を得て強者=侵略的国家を圧倒する必然性を合理的に説明するという副産物を出すことにもなった(王制篇)。
荀子の学問の影響は、秦漢代に大きかった。荀子の下で学んだ韓非子と李斯が、秦帝国の理論的・政策的主柱となったことは、いうまでもない。続く漢代においても、政治家と儒者に対する影響は大きく、とくに漢代の『詩経』・『書経』・『春秋』の学問は、もっぱら荀子の弟子たちの影響下にあった。上の荀子賛で荀子が孔子に匹敵する大人物であったと言われていることは、後世に残した弟子たちの影響力を見れば、あながち誇張とは言えないかもしれない。ただ、漢代を過ぎるとその影響力は急速に衰え、唐代後期以降の儒学復興運動の中においては、荀子は異端として無視されることになってしまった。思うに、荀子の思想的テーマは、すでに秦漢帝国が成立して中華世界が統一され、荀子が描いた法治官僚国家が中華帝国として定着したことによって、全ての課題が成就してしまったのである。秦漢帝国以降の中華世界にとって荀子は達成すべき課題ではなくてすでにある現実であり、もはや思想としての役割を終えたと言えるのではないだろうか。しかし二十一世紀の現代は、世界統一国家などいまだ存在せず(むしろ存在するべきではない、と私は考える)、荀子の課題は世界レベルで未解決なままである。よって、これを再考することは、決して現代人にとっても時間の無駄ではないだろう、と私は思うところである。
楊倞校訂注『荀子』は、この堯問篇の置かれた巻二十の末尾に、旧『孫卿新書』各篇の配列があり、その後に劉向校讎叙録が置かれている。これは『孫卿新書』に添えられた劉向の序文であり、楊倞校訂注『荀子』に添えられたおかげで散逸せずに残存している。『荀子』訳の最後に、劉向校讎叙録の原文・読み下し・訳を添えておくことにする。