不苟篇第三(4)

By | 2015年7月8日
君たちは、自らの言葉を清潔にするので、君たちの同志が集まってくることであろう。また自らの言葉を善にするので、同類の者が君たちに呼応することであろう。これを、馬が鳴いたら別の馬が合せて鳴くことと一緒にしてはいけない。馬が別の馬に合せて鳴くのは、人間のような知のはたらきではなくて、本能の力がそうさせるにすぎない。体を洗いたての者は、衣服を着る前に衣服をはたいてから着る。髪を洗いたての者は、冠を被る前に冠をはたいてから被る。それは、汚れを落そうとする人間の情である。自らが明察であるのに、他人の混迷を受け入れる者などはいない。明察な知は、明察な知を持った同志を引き寄せるのである。

君たち君子が心を養うには、誠であることよりも良いことはない。誠であることを究めるには他でもなく、ただ仁を守り義を行うことをなすに尽きる。心中を誠にして仁を守り切れば、必ず形となって外に表れる。その表れ方は非常に巧妙であり(注1)、その巧妙な作用を通じて他人が教化されるのである。心中を誠にして義を徹底的に行えば、必ず行いには理が立つようになる。理が立てば明快となり、明快な理を用いるので万物の変化に対応することができるのである。情勢の変化が次々に起こり、それに完全に対応して応変することができるならば、それを天徳と言うべきである。天は何も言葉を言わないが、人はその高さを称える。地は何も言葉を言わないが、人はその厚さを称える。四季は何も言葉を言わないが、人民はその移り変わりを期待して生活する。これら天・地・時の自然が常の運行を行うのは、それらが自然法則の極地を示しているからである(注2)。君たち君子もまた、心中に仁義の法則の極地を示して至徳の状態となるならば、天・地・時のように言葉を発することなくして従う者たちから理解され、施すことなくして従う者たちから親しまれ、怒ることなくして従う者たちから畏れられるであろう。つまり天命に従う(注3)とは、自己の心中の仁義を尽くして誠にすることによって行うのである。善なる君子にして正道を治める者は、誠がなければ心中の仁義が完全とならない。心中の仁義が完全とならなければ、仁義が形となって外に表れることもない。仁義が形となって外に表れなければ、たとえ心に善が起こって顔色に表れ言葉に出したとしても、人民はなお君たちに付き従おうとはしないであろうし、たとえ付き従ったとしても君たちへの疑念を捨てられないだろう。天地は広大であるが、もし天地が誠でなければ(=自然法則どおりに運行しなければ)、万物を生成変化させることはできないだろう。聖人もまた大知ある者であるが、もし聖人に誠がなければ(=仁義の法則どおりに行動しなければ)、万民を教化させることはできないだろう。父子は親しむべきなのであるが、もし父子に誠がなければ互いに疎遠となってしまうだろう。君主は尊ばれるべきなのであるが、もし君臣に誠がなければかえって卑しまれてしまうであろう。そもそも誠は、君たち君子が守るべきものであり、政治事業の基本なのである。君たち君子に誠があるならば、居ながらにして同類の同志が君たちのもとに集まってくるであろう。君たちが誠を操(と)り上げたならば、我が身に誠を得るであろう。しかし誠を捨て置いたならば、我が身から誠は失われるであろう。誠を操(と)り上げてこれをわがものとすれば、その者は誠を尚(とうと)ぶであろう。誠を尚ぶならば、(仁義の道徳が心中で統一されて)実践することができるだろう。実践されてその努力を決して捨てなければ、いつか君たちは完成するであろう。すでに完成して悪なる「性」がすっかり修養され尽くして(注4)、それが長い時間経って、始原の「性」の地点に帰ってしまわないところまで自己を修養できたならば、他人を教化することができるだろう。

「君子は位が尊くても志は恭謙であり、注意力が細心であっても進む正道は大きく、直接見て聴く範囲は狭くて近くても見渡して聞き取ることができる範囲は非常に広くて遠い」という言葉は、どういう意味であろうか。それは、操術(そうじゅつ)(注5)を用いることによって、これを成し遂げることができるのである。千万人がいてそれぞれ「情」が違うように見えても、本質的には全ての人間が同じ「情」を持っているのである(注6)。天地の始まった太古の時代ははるかに遠いように見えても、本質的には今日の社会と同じ原理が貫かれているのである。わが国の歴史上の王(注7)が取った道は、現在の君主(注7)が取るべき道と同じなのである。君たちは、現代の君主が取るべき道を詳しく検討することによって、歴史上の王たちの統治した太古の社会を論ずることすら端然と手を拱(こまね)いたまま行えるのである。礼義のもとにある原理を推論し、是非の区分を明確に付け、天下を統治する要点を捉え、海内の人民を統治することすら、あたかも一人の人間を使用するかのように容易に行えるのである。操術はますます簡略化されながら、成し得る事業はますます巨大化する。それは、長さ五寸の矩(ものさし)で天下全体の面積を計算するように行えるのである。ゆえに、君たちは家の部屋から出ることもなく海内の情勢を全て集めることができる。それは、操術を通じて行うのである。


(注1)原文「神」。荀子は「神」の字を精妙なはたらきの意に用いる。ここでは非常に巧妙な作用の意に訳した。
(注2)原文読み下し「其の誠を至(きわ)むる者たるを以てなり」。この文は明らかに上文の「誠を致(きわ)むるには則ち它事(たじ)無し」以下と対応しているのであるが、自然の「誠」とは、自然が法則通りに動く様子を示しているはずである。君子の「誠」もまた同じく、人間の仁義の法則通りに動く様子を表しているからである。なので、ここでの「誠」を自然法則と解釈して訳した。
(注3)原文読み下し「命に順う」。「命」とは明らかに天命のことであり、ここで荀子は孟子の天命論と言葉の上で接近している。人間は自然の「性」のままでは「乱」でありカオスであるが、人間が「偽」を身につけたときに「治」の秩序が生まれる(不苟篇(3)参照)。この「治」の秩序およびそれを実現させる君子の仁義もまた天・地・時と同じく人間普遍の法則であり、その法則をここでは天命と呼んでいるのであろう。ここの論述は子思・孟子の言葉を継承しながら荀子が自説を展開しているために、言葉が先人の用いた議論に引きずられてしまっているように見える。
(注4)原文読み下し「濟りて材盡き」。「材」は素材のことで、荀子の用語で言う「性」である。材が盡(尽)きるとは、素材である「性」が礼義の「偽」によってすっかり修養され尽くすことを言う。
(注5)操術について。漢文大系は「一定の主義宗旨に由りて広く事理を推すの道なり」と解説する。新釈は上の段落を受けて「仁義の操守、すなわち、誠をきわめるという方法」と訳している。上の段落を受けて読めばもとより両者の訳のようになるのだろうが、荀子は原理に従って心中でこれを演繹するだけで、天下全体の情報収集と分析判断ができると本気で考えていたのであろうか?私はそうではなく、上の段落で強調されているがごとくに君子が誠の心を持って適正な判断ができる能力を持つことは、あくまで情報収集と分析判断の準備段階であると考えたい。君子が実際に情報を収集して分析判断を行うことは、礼法を用いて百官人民に指示を出す国家の職務に付いたときに全面的に実施されるだろう。すなわち操術が具体的に実現されるのは君子が為政者となったときであり、そのとき王制篇(5)の「類を以て雜に行き、一を以て萬に行」く統治術として実現するであろう。そのように私は考えたい。
(注6)「情」を正名篇の定義に従って「性」から起こる人間の衝動的感情と考えて、性悪篇、とりわけ(5)の堯・舜と桀・盗跖の「性」が同じであって「偽」によってのみ差が生まれる議論を参照すれば、この荀子の言葉の意味が理解できる。人間の「性」「情」が悪であって等しく欲望を持つという側面から人間を見れば、これを礼義の「偽」によって統御すれば治まり、かつそれ以外に治まる方法はないということを言っているのである。
(注7)原文「百王」・「後王」。百王とは過去の王たち。後王は現代の君主と訳す。非相篇(3)以降を参照。
《原文・読み下し》
君子は其の辯(べん)(注8)を絜(いさぎよ)くして、焉(これ)に同じき者合し、其の言を善くして、焉に類する者應ず。故に馬鳴いて馬之に應ずるは(注9)、知に非ざるなり、其の勢然ればなり。故に新(あらた)に浴する者は其の衣を振い、新に沐する者は其の冠を彈くは、人の情なり。其れ誰か能く己の潐潐(しょうしょう)たるを以て、人の掝掝(わくわく)たるを受くる者ならんや。
君子心を養うは、誠より善きは莫し。誠を致(きわ)むるには則ち它事(たじ)無し、唯(ただ)仁を之れ守ることを爲し、唯義を之れ行うことを爲す。心を誠にして仁を守れば則ち形(あら)わる、形わるれば則ち神なり、神なれば則ち能く化す。心を誠にして義を行えば則ち理あり、理あれば則ち明なり、明なれば則ち能く變ず。變化代興す、之を天德と謂う。天言わずして人高きを推し、地言わずして人厚きを推し、四時言わずして百姓期す。夫(そ)れ此れ常有るは、其の誠を至(きわ)むる者たるを以てなり。君子至德あれば、嘿然(もくぜん)として喩(さと)られ、未だ施さずして親しまれ、怒らずして威(おそ)れらる。夫れ此れ命に順うは、其の獨(どく)を愼(つつし) む(注10)者たるを以てなり。善の道を爲(おさ)むる者は(注11)、誠ならざれば則ち獨ならず、獨ならざれば則ち形われず、形われざれば則ち心に作(おこ)り、色に見(あら)われ、言に出ずと雖も、民猶若(ゆうじゃく)として未だ從わざるなり、從うと雖も必ず疑う。天地大爲るも、誠ならざれば則ち萬物を化すること能わず。聖人知爲るも、誠ならざれば則ち萬民を化すること能わず、父子親(しん)爲るも、誠ならざれば則ち疏(うと)く、君上尊爲るも、誠ならざれば則ち卑し。夫れ誠なる者は君子の守る所にして、政事の本なり、唯居る所にして其の類を以て至るなり。之を操れば則ち之を得、之を舍(お)けば則ち之を失う。操りて之を得れば則ち輕(とうと)び(注12)、輕べば則ち獨(どく)を行い、獨を行いて舍かざれば則ち濟(な)る。濟りて材盡(つ)き、長遷して其の初に反らざれば則ち化す。
君子は位尊くして志は恭に、心小にして道は大に、聽視する所の者近くして、聞見する所の者は遠し。是れ何ぞや、則ち操術然らしむるなり。故に千人萬人の情は、一人の情是れなり、天地の始なる者は、今日是れなり。百王の道は、後王是れなり。君子は後王の道を審かにして、百王の前を論ずること、端拜(たんきょう)(注13)して議するが若し。禮義の統を推し,是非の分を分ち、天下の要を摠(す)べ、海內の衆を治むること、一人を使うが若し。故に操は彌(いよいよ)約にして事は彌大に、五寸の矩(く)も、天下の方を盡すなり。故に君子は室堂(しつどう)(注14)を下らずして、海內の情舉(みな)此に積(あつ)まる者は、則ち操術然らしむるなり。


(注8)『韓詩外伝』の引用では、「辯」字が「身」字である。集解の盧文弨・王先謙は「身」字を正しいとみなす。しかし新釈の藤井専英氏も指摘するように、ここは「辯」字のままで差し支えないと考える。
(注9)『韓詩外伝』の引用では、この後に「牛鳴而牛應之(牛鳴いて牛之に應ず)」の六字がある。
(注10)原文「愼其獨」。少し儒学を学んだ者であれば、この語を見るとすぐに『中庸』の「君子は其の獨を愼む」(第三節)を連想する。楊注は、明らかに『中庸』を想定してこの語を注釈している。しかし集解の郝懿行は、中庸の「愼獨」はこれと義が別であり、「愼」は「誠」なり、と言う。さらに進んで新釈の藤井氏は、「愼」が「誠」の意であるから「愼獨」は上文の「誠心」に通じ、「獨」は己の心身をさす、と言う。藤井氏は「愼其獨」の内容は、上文の「心を誠にして仁を守」り「心を誠にして義を行」うの意である、と言う。なお、出土文献である『五行』に「愼獨」の語が表れていて、佐藤将之氏はこれに対する龐樸の解釈を取って”pays a special concern about the integration of his [moralities]”と英訳されている。その解釈に従うならば「獨」は「一」と同義であり、『中庸』の「獨」字もヒトリキリという伝統的解釈を捨てなければならない。いまこの線で仮に「其の獨を愼む」を訳すならば、「(君子は施すことなくして従う者たちから親しまれ、怒ることなくして従う者たちから畏れられる、といったことを)自分の心中の仁義の道徳を統一してわが物とすることに注力することによって行うのだ」となるだろうか。
(注11)原文「善之爲道者」。新釈の藤井氏は、「善」は用言とみなさなければならない、と言う。なぜならば本段落のここ以降は本段落初頭の「君子心を養うは、誠より善きは莫し」~「變化代興す、之を天德と謂う」の敷衍であり、両者の冒頭は同義でなければならないからである。ならば「君子」が「善之爲道者」と対であり、「養心(心を養う)」「誠」がそれぞれ「不獨(獨ならず)」「不誠(誠ならざれば)」と対とされるであろう。藤井氏はこの考えに従い「善之爲道者」を「道を爲(おさ)むるに善き者」と読み下している。言われることは分かるのであるが、この読み下し方が通るかどうか私としては判断が難しい。ここは藤井説のうち「爲」字をオサムと読む箇所を取り上げて通説と折衷し、あえて「善の道を爲(おさ)むる者」と読み下して、意味は「善(なる君子)にして正道を治める者」の意と解したい。
(注12)佐藤将之氏は龐樸の『五行』解釈に従い「輕」は尚、とみなす。トウトブ。これに従い、定説からあえて訳を変更する。
(注13)楊注は「端拜」はなお「端拱」のごとし、と言う。なお集解の王念孫は、「拜」字は「拱」字の古形の誤写であろう、と言う。「拱」字の古い形は「手」字を二つ並べた形である。王念孫に従い、「端拱」が正しいとみなす。端然と手を拱(こまね)くこと。
(注14)宋本は「室堂」で元本には「室」がない。増注・盧文弨ともに「室」字を衍字とみなして削るが、集解の王念孫は「室」字は衍字ではないと言い、書伝の中に「室堂」の語を言うことは多いと指摘する。王念孫に従い「室」字を衍字とみなさない。

上に訳した箇所の中間の段落は、『中庸』『孟子』の用いるレトリックに近い。しかしながら荀子は子思・孟子の批判者なので、両者とは似て非なる主張であると読まなければならない。荀子は、君子が心中に仁義を守って誠であることを要求することについては、子思・孟子と同一である。だが同一なのはここまでで、その仁義に誠である君子の力が社会に及ぼされるためには、必ず礼義のシステムを通じて実現されなければならないと考えるのが、荀子のはずである。

つづく段落では、後王思想もまた表明されている。非相篇で検討したことを繰り返すと、荀子は人間社会の統治術が本質的には歴史的にいっさい発展しておらず、太古から荀子の時代までよく統治された治世には同じ原理の統治術が適用されてきたはずだ、と考える。荀子は、歴史不変論者である。荀子が後王の制度を学ぶことによって記録の残らないいにしえの王の統治を知ることができる、と断ずるのは、両者の間には統治術にいかなる相違も存在するはずがない、と信じるからである。

荀子は、君子が礼義を扱うことによって国家を統治すると言う。だがその「礼義」から倫理的規範を取り除いて運用システムだけに注目するならば、その統治システムは法家思想の「法」のシステムと変わることがないといえる。荀子のイメージを具体化するならば、君子=為政者は官僚組織を束ねて法規を統御することによって、執務室から簡潔な指示を出すことによって配下の組織を動かし、政策結果を出すことができるというものであろう。すなわち、現代の国家組織や巨大企業の運営と本質的に同様の統治術を想定しているはずである。現代の人間はこれが理想国家の運営術なのだ、と言われても当たり前かつ没理想的すぎて困惑してしまうが、現代において当たり前となったことを2000年以上前の古代社会において指摘していたのが、荀子思想(そして法家思想もそうである)の先見性なのであった。

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