『大学或問』伝五章の二~格物窮理とは~
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。 〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。 〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。 〇送り仮名は、原文の訓点から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。 |
《読み下し》 又進脩の術何れか先なること問う者有り、程子の曰く、心を正し意を誠にするより先なるは莫し、然れども意を誠にせんと欲せば、必ず先ず知を致せ、知を致さんと欲せば、又物に格(いた)る(注1)に在り、致は盡なり、格は至なり、凡そ一物有れば、必ず一理有り、窮めて之に至るは、所謂(いわゆる)物に格る者なり、然れども物に格ること亦一端に非ず、或は書を讀みて道義を講明し、或は古今の人物を論じて其の是非を別ち、或は事物を應接して其の當否に處るが如きは、皆理を窮むるなり、曰、物に格るというは、必ず物物にして之に格るや、將(は)た止(た)だ一物に格りて、萬理皆通ずるや、曰、一物格りて萬理通ずることは、顔子(注2)と雖も亦未だ此に至らじ、惟だ今日にして一物に格り、明日又一物に格り、積習旣に多くして、然して後に脱然として貫通する處有るのみ。 又曰く、一身の中自(よ)り、以て萬物の理に至るまで、理會し得ること多くして、自ら當に豁然として箇の覺る處有るべし。 又曰く、理を窮むるというは、必ず天下の理を盡し窮むと謂うに非ず、又止だ一理を窮め得れば便ち到ると謂うに非ず、但だ積累すること多くして後、自ら當に脱然として悟る處有るべし。 又曰く、物に格るは、天下の物を盡し窮めんと欲するに非ず、但だ一事の上に於て窮盡して、其の他類を以て推す可し、孝を言うに至りては、則ち當に其の孝爲る所以の者如何と求むべし、若し一事の上に窮め得ざれば、且つ別に一事を窮む、或は其の易き者を先にし、或は其の難き者を先にす、各人の淺深に隨う、譬えば千蹊萬徑の如し、皆以て國に適(ゆ)く可し、但だ一道を得て入れば、則ち類を推して其の餘に通ず可し、蓋し萬物各一理を具えて、而して萬理同じく一原に出ず、此れ推して通ぜずということ無かる可き所以なり。 又曰く、物必ず理有り、皆當に窮むべき所、天地の高深なる所以、鬼神(注3)の幽顯なる所以の若き是れなり、若し曰天は吾れ其の高きことを知るのみ、地は吾れ其の深きことを知るのみ、鬼神は吾れ其の幽にして且つ顯なることを知るのみと曰わば、則ち是れ已に然り詞、又何の理をか窮む可けんや。 又曰く、孝を爲んと欲せば、則ち當に孝爲る所以の道を知るべし、如何にして奉養の宜爲る、如何にして温凊(おんせい)(注4)の節爲る、窮究せずということ莫くして、然して後に之を能くす、獨り夫の孝の一字を守りて得可きに非ず。 或は問う、物を觀己を察する者、豈に物を見るに因りて反て諸己に求めんや、曰、必ずしも然らず、物我一理、纔(わず)かに彼を明にすれば即ち此を曉とす、此れ内外を合するの道なり、其の大を語れば、天地の高厚なる所以、其の小を語れば、一物の然る所以に至るまで、皆學者の所宜しく思を致すべき所なり、曰、然らば則ち先ず之を四端(注5)に求めて可ならんや、曰、之を情性に求めば、固(まこと)に身に切ならん、然して一草一木亦皆理有り、察せずんばある可からず。 又曰く、致知の要當に至善の在る所を知るべし、父は止だ慈に、子は止だ孝にの類の如し、若し此を務めずして、徒に汎然として以て萬物の理を觀んと欲せば、則ち吾れ恐らくは其の大軍の游騎、出ること太(はなは)だ遠くして歸する所無きが如くならんことを。 又曰く、格物は之を身に察して、其の之を得ることの尤も切なるに若くは莫し。 此の九條は、皆格物致知の當に力を用うべきの地と、其の次第工程とを言うなり。
(注1)出典本では、「物ニ格ルニ」とならんで「物ヲ格スニ」の読み下しが置かれている。
(注2)顔子は、顔回のこと。字は子淵で、顔淵とも言われる。孔子の弟子の一人で、孔子から最高の評価を受けている。 (注3)鬼神は、死者の霊魂。中国の信仰では、これが実在しているゆえに厚く葬喪の礼を行い、祖先の祭祀を行うのであると考える。 (注4)礼記曲礼篇「凡そ人子爲るの禮、冬には温にして夏には凊、昏には定して晨には省」より。親への孝礼は冬には温かく夏には凊(すず)しく計らい、夜には寝所を定めて朝には安否の挨拶をする。 (注5)四端とは孟子公孫丑章句上ほかにあらわれる惻隠・羞悪・辞譲(または恭敬)・是非の心であり、孟子はこれをそれぞれ仁・義・礼・智の端(たん。はじまり)と呼んだ。 |
《要約》
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