大学或問・経の五 ~経は孔子の言、伝は曾子の言、大学は論孟に先立ち読むべし~

投稿者: | 2023年3月17日

『大学或問』経の五~経は孔子の言、伝は曾子の言、大学は論孟に先立ち読むべし~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文の訓点から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
曰、子謂く正經は蓋し夫子の言にして、曾子之を述ぶ、其の傳は則ち曾子の意にして、門人之を記せり、何を以てか其の然ることを知るや。
曰、正經は辭約(つづまや)かにして理備わり、言近うして指遠し、聖人に非ずば及ぶこと能わざるなり、然れども其の他の左驗無きを以て、且つ意の其れ或は古昔先民の言に出るかと、故に之を疑いて敢て質さず、傳文に至りて、或は曾子の言を引きて、而(しこう)して又多く中庸孟子なる者と合うときは、則ち知る其の曾氏の門人の手に成りて、而して子思以て孟子に授くること疑い無し、蓋し中庸の所謂(いわゆる)善を明にすというは、即ち物を格(いた)し知を致すの功、其れ身を誠にすと曰うは、即ち意を誠にし心を正し身を脩むるの效なり(注1)、孟子の所謂性を知るというは、物格るなり、心を盡すというは、知至るなり、心を存し性を養い身を脩むというは、意を誠にし心を正し身を脩むるなり(注2)、其の他の獨を謹む(注3)の云、慊(あきた)らず(注4)の説、義利の分、恒に言うの序(注5)の如き、亦脗合(ぶんごう)せずという者の無し、故に程子以爲(おもえら)く孔氏の遺書、學者の先務、而して論孟猶(なお)其の次に處すること、亦見つ可し。
曰、程子の是の書を先にして論孟を後にして、又且つ中庸に及ばざるは、何ぞや。
曰、是の書は世に垂れ敎を立つるの大典、通じて天下後世の爲にして言う者なり、論孟は機に應じ物に接(まじ)わるの微言、或は一時一事に因りて發する者なり、是を以て是の書の規模大なりと雖も、然れども其の首尾該(か)ね備わりて、綱領尋ぬ可し、節目分明にして、工夫序有り、學者の日用に切なるに非ずということ無し、論孟の爲にすること切なりと雖も、然も問う者の一人に非ず、記す者の一手に非ず、或は先後淺深の序無く、或は抑揚進退の齊(ひと)しからず、其の間蓋し初學日用の及ぶ所に非ざる者有り、此れ程子是の書を先にして論孟を後にする所以は、蓋し其の難易緩急を以て之を言う、聖人の言を以て優劣有りと爲るに非ず、中庸に至りては、則ち又聖門傳授極致の言(こと)、尤も後學の得て聞き易き所の者に非ず、故に程子の敎、未だ遽(にわ)かに之に及ぼさず、豈に又以て論孟旣に通じて、然して後に以て此に及ぶ可しと爲(せ)ざらんや、蓋し大學を先にせざれば、以て綱領を提挈(ていけつ)(注6)して論孟の精微を盡すこと無し、之を論孟に參(なら)べざれば、以て融貫會通して中庸の歸趣を極むること無し、然も其の極を中庸に會せずんば、則ち又何を以てか大本を建立し、大經を經綸して、天下の書を読み、天下の事を論ぜんや、是を以て之を觀れば、則ち講學を務むる者は、固(まこと)に四書を急にせずばある可からず、而して四書を讀む者は、大學を先にせずばある可らざること、亦已に明けし、今の敎うる者は、乃ち或は之を棄て務めず、反て他説を以て先す、其の虛空に溺れ、功利に流れて、罪を聖門に得ざる者は、幾(ほとん)ど希なり。


(注1)中庸「身を誠にするに道有り。善に明らかならざれば、身に誠ならず。誠なる者は、天の道なり。之を誠にする者は、人の道なり。誠なる者は、勉めずして中(あ)たり、思わずして得、從容として道に中たる、聖人なり。之を誠にする者は、善を擇びて固く之を執る者なり。」中庸のこのあたりが、大学の格物致知・誠意正心の効果を説明していると読んでいるのである。
(注2)孟子盡心章句上「其の心を盡す者は、其の性を知るなり、其の性を知らば、則ち天を知るなり、其の心を存し、其の性を養うは、天に事(つか)うる所以なり。」孟子の「心を盡す」「性を知る」「心を存し、性を養う」がそれぞれ大学の致知・格物・誠意正心にあたる、と読んでいる。
(注3)中庸「微(かす)かなるより顯(あら)わるるは莫し、故に君子は其の獨を愼しむなり。」大学伝六章に「故に君子は必ず其の獨を愼むなり」とある。
(注4)孟子公孫丑章句上「行い心に慊からざること有れば、則ち餒(う)う。」大学伝六章に「此を之自ら謙(慊)くすと謂う」とある。「慊」はあきたりる、こころよくする、の意。大学の「謙」字は、鄭玄注で「謙は読んで慊」とされる。
(注5)孟子離婁章句上「人恒の言有り。皆天下國家と曰う。天下の本は國に在り、國の本は家に在り、家の本は身に在り。」
(注6)提挈は、かかげだすこと。
《要約》

  • 朱子は「大学の経はおそらく孔子の言葉であり、伝は曾子の意図を門人が書き記したものである」と言う(程子の説の継承)。その理由を問われて朱子は、「経は簡潔な言葉で理が備わっており、身近な言葉で遠くを指す、聖人でなければできるものではない。しかしその証拠はない。もしかしたら孔子より前から伝わる言葉かもしれない。そこに疑問はあるが、あえてそれ以上は詮索しない」、「伝はその中に曾子の言葉が引用されており(伝六章)、中庸・孟子と多くが合致している。したがって曾子の門人が作って子思に授け、子思から孟子に授けられたことは疑いない」と答える。
  • 程子が大学を先にし論語・孟子を後にせよと言い、だが中庸を言わなかった理由を問われて朱子は、「大学は大典で天下後世のための言葉であり、論語・孟子は機に応じ物に接して言われた微言(含蓄のある警句)であり、あるいは一時一事に発された言葉である。大学は首尾が備わり、綱領が示され、章立てが明らかで、努力する手順がある。これは学ぶ者の日々の応用に親切である。論語・孟子は質問者・記録者が一定でなく、先後浅深の順序がなく、抑揚進退の調子が一定でない。両書は、おそらく初学者が日々の応用に使えるものではない。程子が大学を先にして論語・孟子を後にせよと言ったのは、こういった難易緩急の差があってのことであり、決して聖人の言葉に優劣を見たからではない。中庸は聖門伝授の極致であり、後学の者にとって聞きやすいものではない。ゆえに程子はにわかに教えなかったまでのことだ。必ずや論語・孟子を理解した後に中庸を読むべきだと考えていたはずである」と答える。
  • 大学を先に学んでこそ、その綱領をかかげ出して論語・孟子の精微を尽くすことができる。大学を論語・孟子と並べてこそ、中庸に融貫会通してその意趣を極めることができる。中庸まで極めなければ、大本を建立して大経を経綸して天下の書を読み天下の事を論じることはできない。よって学を講じる者は、真っ先に大学・論語・孟子・中庸の四書を取り上げなければならない。そして四書を読む者は、最初に大学に取り組まなければならない。

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