『大学或問』経の五~経は孔子の言、伝は曾子の言、大学は論孟に先立ち読むべし~
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。 〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。 〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。 〇送り仮名は、原文の訓点から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。 |
《読み下し》 曰、子謂く正經は蓋し夫子の言にして、曾子之を述ぶ、其の傳は則ち曾子の意にして、門人之を記せり、何を以てか其の然ることを知るや。 曰、正經は辭約(つづまや)かにして理備わり、言近うして指遠し、聖人に非ずば及ぶこと能わざるなり、然れども其の他の左驗無きを以て、且つ意の其れ或は古昔先民の言に出るかと、故に之を疑いて敢て質さず、傳文に至りて、或は曾子の言を引きて、而(しこう)して又多く中庸孟子なる者と合うときは、則ち知る其の曾氏の門人の手に成りて、而して子思以て孟子に授くること疑い無し、蓋し中庸の所謂(いわゆる)善を明にすというは、即ち物を格(いた)し知を致すの功、其れ身を誠にすと曰うは、即ち意を誠にし心を正し身を脩むるの效なり(注1)、孟子の所謂性を知るというは、物格るなり、心を盡すというは、知至るなり、心を存し性を養い身を脩むというは、意を誠にし心を正し身を脩むるなり(注2)、其の他の獨を謹む(注3)の云、慊(あきた)らず(注4)の説、義利の分、恒に言うの序(注5)の如き、亦脗合(ぶんごう)せずという者の無し、故に程子以爲(おもえら)く孔氏の遺書、學者の先務、而して論孟猶(なお)其の次に處すること、亦見つ可し。 曰、程子の是の書を先にして論孟を後にして、又且つ中庸に及ばざるは、何ぞや。 曰、是の書は世に垂れ敎を立つるの大典、通じて天下後世の爲にして言う者なり、論孟は機に應じ物に接(まじ)わるの微言、或は一時一事に因りて發する者なり、是を以て是の書の規模大なりと雖も、然れども其の首尾該(か)ね備わりて、綱領尋ぬ可し、節目分明にして、工夫序有り、學者の日用に切なるに非ずということ無し、論孟の爲にすること切なりと雖も、然も問う者の一人に非ず、記す者の一手に非ず、或は先後淺深の序無く、或は抑揚進退の齊(ひと)しからず、其の間蓋し初學日用の及ぶ所に非ざる者有り、此れ程子是の書を先にして論孟を後にする所以は、蓋し其の難易緩急を以て之を言う、聖人の言を以て優劣有りと爲るに非ず、中庸に至りては、則ち又聖門傳授極致の言(こと)、尤も後學の得て聞き易き所の者に非ず、故に程子の敎、未だ遽(にわ)かに之に及ぼさず、豈に又以て論孟旣に通じて、然して後に以て此に及ぶ可しと爲(せ)ざらんや、蓋し大學を先にせざれば、以て綱領を提挈(ていけつ)(注6)して論孟の精微を盡すこと無し、之を論孟に參(なら)べざれば、以て融貫會通して中庸の歸趣を極むること無し、然も其の極を中庸に會せずんば、則ち又何を以てか大本を建立し、大經を經綸して、天下の書を読み、天下の事を論ぜんや、是を以て之を觀れば、則ち講學を務むる者は、固(まこと)に四書を急にせずばある可からず、而して四書を讀む者は、大學を先にせずばある可らざること、亦已に明けし、今の敎うる者は、乃ち或は之を棄て務めず、反て他説を以て先す、其の虛空に溺れ、功利に流れて、罪を聖門に得ざる者は、幾(ほとん)ど希なり。
(注1)中庸「身を誠にするに道有り。善に明らかならざれば、身に誠ならず。誠なる者は、天の道なり。之を誠にする者は、人の道なり。誠なる者は、勉めずして中(あ)たり、思わずして得、從容として道に中たる、聖人なり。之を誠にする者は、善を擇びて固く之を執る者なり。」中庸のこのあたりが、大学の格物致知・誠意正心の効果を説明していると読んでいるのである。
(注2)孟子盡心章句上「其の心を盡す者は、其の性を知るなり、其の性を知らば、則ち天を知るなり、其の心を存し、其の性を養うは、天に事(つか)うる所以なり。」孟子の「心を盡す」「性を知る」「心を存し、性を養う」がそれぞれ大学の致知・格物・誠意正心にあたる、と読んでいる。 (注3)中庸「微(かす)かなるより顯(あら)わるるは莫し、故に君子は其の獨を愼しむなり。」大学伝六章に「故に君子は必ず其の獨を愼むなり」とある。 (注4)孟子公孫丑章句上「行い心に慊からざること有れば、則ち餒(う)う。」大学伝六章に「此を之自ら謙(慊)くすと謂う」とある。「慊」はあきたりる、こころよくする、の意。大学の「謙」字は、鄭玄注で「謙は読んで慊」とされる。 (注5)孟子離婁章句上「人恒の言有り。皆天下國家と曰う。天下の本は國に在り、國の本は家に在り、家の本は身に在り。」 (注6)提挈は、かかげだすこと。 |
《要約》
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