大きな太字は、『礼記』大学篇の原文を示す。 細字は、『礼記』大学篇に朱子が付け加えた書き下ろし文を示す。 小さな茶字は、朱子が書き下ろした注解を示す。 |
《読み下し》 所謂(いわゆる)身を脩(おさ)むるは其の心を正すに在りとは、身(こころ)忿懥(ふんち)する所有れば、則ち其の正を得ず、恐懼(きょうく)する所有れば、則ち其の正を得ず。好樂(こうらく)する所有れば、則ち其の正を得ず、憂患(ゆうかん)する所有れば、則ち其の正を得ず。 程子(ていし)曰(いわ)く、身有の身は、當(まさ)に心に作るべし、と。忿は、弗粉(ふつふん)の反。懥は、敕値(ちょくち)の反。好・樂は、並(ならび)に去聲(きょせい)。 忿懥は、怒るなり。蓋(けだ)し是(こ)の四者は、皆心の用にして、人の無き者能(あた)わざる所の者なり。然れども一たび之有りて察する能わざれば、則ち欲動き情勝ちて、其の用の行わるる所、或(あるい)は其の正を失わざる能わず。 心焉(ここ)に在らざれば、視れども見えず、聽(き)けども聞(きこ)えず、食(くら)えども其の味を知らず。 心存ぜざる有れば、則ち以て其の身を檢(けん)すること無し。是(ここ)を以て君子は必ず此(ここ)に察して、敬(けい)以て之を直(なお)くす。然る後此の心常に存して、身脩まらざること無し。 此を身を脩むるは其の心を正しくするに在りと謂う。 右は傳(でん)の七章。心を正しくして身を脩むるを釋(と)く。 《用語解説・本文》 身忿懥する所有れば朱子注に、「程子曰く、身有の身は、當に心に作るべし」とある。いちおう程子の説に従い、「身」字を「心」に読み替えてココロと訓読みしておく。 好樂朱子注は、「好・樂は、並に去聲」と注する。「樂(楽)」は入声では「たのしい」(読みラク)「音楽」(読みガク)の意となり、去声では「たのしむ」(読みギョウ)の意である。なので朱子注に沿えば「コウギョウ」と読むべきであるが、日本語の普通の読み方のとおりコウラクと読みがなを打った。 《用語解説・朱子注》 |
《現代語訳》 いわゆる「自分自身をよくしようと精進することは自分の心を正しくするところにある」ということは、どういうことか。それは、心が怒っていると正しい心は得られない。心が恐れおののいていると正しい心は得られない。心が好いたり楽しんでいたりすると正しい心は得られない。心が憂えて悩んでいると正しい心は得られないということである(だから、これらの感情を抑えるのが正しい心を保つために必要である)。 程子が言うに、「『身有』の『身』字は、『心』字に読み替えるべきだ」と。「忿」は、「弗」「粉」の反切。「懥」は、「敕」「値」の反切。「好」・「樂」は、いずれも去聲(きょせい)。 「忿懥」は、怒ることである。思うに、これら四つのものはいずれも心の本体から出た作用であり、人がなくすことはできないものである。しかしながら、ひとたびこういった作用が湧き出たときによく省察することがないならば、私欲が動いて感情が勝ってしまい、心の作用が発現したときに正しさを失ってしまいかねない。 心がわが元になければ、目で見えていても心は見ておらず、耳で聞こえていても心は聞いておらず、口で食べていても心は味わっていない(正しい心を得ていなければ、判断力がつかないのである)。 心を保っていないならば、わが身を点検することができない。なので君子は必ずこのことを察して、つつしみの心をもって自らの心の中をまっすぐにするのだ。そうした後に自らの心は常に保たれて、必ず自分自身の精進をすすめることができるだろう。 このことを、「自分自身をよくしようと精進することは自分の心を正しくするところにある」というのである。 以上は、伝の七章である。自分の心を正しくして、自分自身を精進することを説いている。 |
《原文》 所謂脩身在正其心者、身有所忿懥、則不得其正、有所恐懼、則不得其正。有所好樂、則不得其正、有所憂患、則不得其正。 程子曰、身有之身、當作心。忿、弗粉反。懥、敕值反。好・樂、並去聲。 忿懥、怒也。蓋是四者、皆心之用、而人所不能無者。然一有之而不能察、則欲動情勝、而其用之所行、或不能不失其正矣。 心不在焉、視而不見、聽而不聞、食而不知其味。 心有不存、則無以檢其身。是以君子必察乎此、而敬以直之。然後此心常存、而身無不脩也。 此謂脩身在正其心。 右傳之七章。釋正心脩身。 |
ここから先は、朱子の章句と礼記大学篇の文は同一の順番となる。伝七章は正心・脩身の章であると朱子はしめくくるが、主要なテーマは「正心=心を正す」ところにある。ここで説かれていることは、喜怒哀楽の感情の自制であり、放心して夢中となることの戒めである。リーダーたるべき君子は、常に自制心を保たなければならないということであろう。
本章は、荀子解蔽篇の下の言葉に近い。
故(なに)か蔽(へい)を為す。欲蔽を為し、悪(お)蔽を為し、始蔽を為し、終蔽を為し、遠蔽を為し、近蔽を為し、博蔽を為し、浅蔽を為し、古蔽を為し、今蔽を為す。
(何が、心を蔽うのであろうか?欲が、心を蔽う。憎しみが、心を蔽う。初めてやることであると、心が蔽われる。最後の仕上げの段階に至ると、心が蔽われる。疎遠な存在だと、心が蔽われる。身近すぎると、心が蔽われる。いろいろと知りすぎると、心が蔽われる。あまりに知らなすぎると、心が蔽われる。時代が古すぎると、心が蔽われる。時代が新しすぎると、心が蔽われる。)
荀子も大学も同様に、君子が心を蔽われずに中正な判断力を保つべきことを説いている。戦国時代以降に成立した巨大な官僚組織の上にあって、統治者はいかなる心理状態をもって決断力を磨くべきか。そのことを叙述したのが、荀子の趣意である。大学もまた、作成された当時にはそのような問題意識を背景としていていたのではないか、と思われる。
本章では、わが国の伊藤仁斎の批判に触れざるをえない。仁斎は『大学』は程子や朱子が言うような孔子の遺書などではなく、後世の作であると主張した(『語孟字義 附・大学は孔氏の遺書に非ざるの辨』)。その論拠の一つとして本章の記述を挙げて、それが論語に見える孔子の言行と全く違っていると厳しく批判した。論語の言葉から見える孔子は、喜びもするし哀しみもする。夢中になって食事の味も忘れることだって、あったのだ。孔子の偉大さはそのような人なみの感情を持った上で、さらに高い教えを積み上げたところにある。『大学』の記述は孔子の教えとは到底言えず、後世に老荘の悪影響を受けた者が書いたものに違いない。仁斎はそのように批判する。いずれ付録として仁斎の『大学』批判文の全文を訳出する予定なので、詳しくはそこで検討したい。
読んでいます。
二巡目です。
感謝しています。
ありがとうございます。