大学章句序(2)

投稿者: | 2016年9月25日
《現代語訳》
時代が下って夏(か)・殷(いん)・周の三代が栄えていた頃になると、教育の制度はますます整えられた。そうして王宮の都・諸侯の都から村落に至るまで、学ぶ制度があまねく敷かれたのであった。すなわち人は生まれて八歳になれば、王・諸侯から庶民に至るまで、子弟はみな小学校に入れられた。ここで教えられたのは、灑掃(さいそう。建物のふきそうじ)・応対(おうたい。来客や目上の人へのもてなし)・進退(しんたい。我が身の立ち居ふるまい)のやり方であり、また礼(れい。宮廷・村落・家庭における礼儀作法のルール)・楽(がく。楽器演奏と合唱)・射(しゃ。弓術)・御(ぎょ。馬車の運転術)・書(しょ。読み書き)・数(すう。算数)の学習であった。十五歳になれば、天子(てんし。国王のこと)の太子およびその他の王子からはじまり、公卿(こうけい。大臣級の貴族)・大夫(たいふ。上級の貴族)・元士(げんし。下級の宮廷人)の嫡子に至るまで、さらにはすべての家庭の中から優秀な子弟は、みな大学校に入れられた。ここで教えられたのは理を窮めて心を正し、己を修めて人を治める道であった。これがいにしえの時代の学校教育において、大学校・小学校が区別された理由であった。

《用語》
夏・殷・周の三代原文「三代」。夏・殷は堯・舜の後を継いだ古代王朝として『論語』の孔子の言葉に表れ、『史記』には歴代の王の系譜と業績が記されている。考古学的に殷は殷墟(いんきょ)の発掘によってその実在が確定されたが、夏の実在についてはいまだに議論が行われている。
王宮の都・諸侯の都原文「王宮・國都」。周代には、首都に王宮があって王の直轄地を統治し、地方に諸侯の都があって封地を統治する、いわゆる封建制が敷かれていた。
礼・楽・射・御・書・数これらを合わせて「六芸(りくげい)」と呼び、『周礼』などに古代の子弟教育のカリキュラムとして表れる。礼・楽は最も重視される文化。射は武人としてのたしなみ。御は平時には貴人を馬車に載せ、戦時には戦車を操る術。六芸は、長じて村の世話役あるいは地方の下級役人となるために最低限必要な技能であった。
理を窮めて心を正し、己を修めて人を治める道原文読み下し「理を窮め心を正し、己を修め人を治むるの道」。原文では「窮理正心、修己治人之道」。その内容は『大学章句』本文で詳説される。窮理は本文八条目の格物致知、正心は誠意正心、修己は脩身、治人は斉家以下である。

《読み下し》
三代の隆には、其の法寖(いよいよ)備わる。然る後に王宮・國都より以て閭巷(りょこう)に及ぶまで、學有らざるは莫(な)し。人は生れて八歲にして、則ち王公より以下庶人の子弟に至るまで、皆小學(しょうがく)に入る。而(しこう)して之を敎うるに灑掃(さいそう)・應對(おうたい)・進退(しんたい)の節(せつ)、禮(れい)・樂(がく)・射(しゃ)・御(ぎょ)・書(しょ)・數(すう)の文を以てす。其の十有五年(じゅうゆうごねん)に及べば、則ち天子の元子(げんし)・衆子(しゅうし)より、以て公卿(こうけい)・大夫(たいふ)・元士(げんし)の適子(てきし)に至るまでと、凡民(ぼんみん)の俊秀とは、皆大學に入る。而して之を敎うるに理を窮(きわ)め心を正し、己を修め人を治むるの道を以てす。此れ又學校の敎(おしえ)、大小の節の、分かるる所以(ゆえん)なり。

《原文》
三代之隆、其法寖備。然後王宮・國都以及閭巷、莫不有學。人生八歲、則自王公以下至於庶人之子弟、皆入小學。而敎之以灑掃・應對・進退之節、禮・樂・射・御・書・數之文。及其十有五年、則自天子之元子・衆子、以至公卿・大夫・元士之適子、與凡民之俊秀、皆入大學。而敎之以窮理正心、修己治人之道。此又學校之敎、大小之節、所以分也。

ここで朱子は、『周礼』『礼記』といった古代文献に書かれているいにしえの時代の教育制度に言及し、それが夏・殷・周の三代で実際に行われていたのだ、ということを事実として受け止める。現代の歴史学の視点からいえば、その主張は怪しい。私の見解は、もっと後の時代に儒家が教育の理想として描いたプランが、いにしえの時代の制度として仮託されたものであろうと思う。

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