大学章句:伝八章

投稿者: | 2017年7月19日
大きな太字は、『礼記』大学篇の原文を示す。
細字は、『礼記』大学篇に朱子が付け加えた書き下ろし文を示す。
小さな茶字は、朱子が書き下ろした注解を示す。
《読み下し》
所謂(いわゆる)其(そ)の家を(ととの)うるは其の身を脩(おさ)むるに在りとは、人は其の親愛する所に之(おい)て辟(かたよ)り、其の賤惡(せんお)する所に之て辟り、其の畏敬する所に之て辟り、其の哀矜(あいきょう)する所に之いて辟り、其の敖惰(ごうだ)する所に之て辟る。故(ゆえ)に好んで而(しか)も其の惡を知り、惡(にく)んて而も其の美を知る者は、天下に鮮(すくな)し。
辟は、讀(よ)んで僻(へき)と爲す。惡而の惡と、敖・好とは、並びに去聲(きょせい)。鮮は、上聲(じょうせい)。
人は、衆人を謂う。之は、猶(な)お於(おいて)のごときなり。辟は、猶お偏(へん)のごときなり。五者は人に在りて、本(もと)當然(とうぜん)の則(のり)有り。然れども常人の情は、惟(ただ)其の向う所のままにして審(しん)を加えざれば、則ち必ず一偏に陷(おちい)りて身脩まらず。

故に諺(ことわざ)に之(こ)れ有りて曰く、人は其の子の惡(みにく)さを知る莫(な)く、其の苗の碩(おお)いなるを知る莫し、と。
諺の音は、彥(げん)。碩は叶韻(きょういん)にして、時若(しじゃく)の反。
諺は、俗語(ぞくご)なり。溺愛する者は明(あきら)かならず、得(とく)を貪(むさぼ)る者は厭(あ)く無し。是(こ)れ則ち偏(へん)の害を爲して、家の齊わざる所以(ゆえん)なり。

此を身脩まらざれば以て其の家を齊う可(べ)からずと謂う。

右は傳の八章。身を脩めて家を齊うるを釋(と)く。


《用語解説・本文》
人は其の親愛する所に之て辟り、、朱子注に、「之は、猶お於のごときなり」とある。朱子の解釈に従い、以下の「之」字を「於」の意とみなす。
敖惰新釈漢文大系に従い、「気やすくする、なれなれしくする」の意に取る。

《用語解説・朱子注》
去聲・上聲中国語の四声(四つの声調、抑揚の調子)の一。経(4)用語解説参照。
碩は叶韻にして、時若の反反は反切のこと。叶韻(きょういん)および反切については、伝三章(後)の用語解説を参照。引用されているのは古い諺(ことわざ)であるが、諺も詩と同じく句末の音が韻を踏むのでこの朱子の注釈が置かれている。

《現代語訳》
いわゆる「自分の家庭をよくすることは自分自身をよくしようと精進するところにある」ということは、どういうことか。それは、普通の人というものは親しい対象についてはかたよった見方をしてしまい、さげすむ対象についてはかたよった見方をしてしまい、畏敬する対象についてはかたよった見方をしてしまい、あわれむ対象についてはかたよった見方をしてしまい、なれなれしくつきあう対象についてはかたよった見方をしてしまうものだ。人は通常このようであるために、心で好いていながらしかもその悪い点をよく直視し、心で嫌っていながらしかもその良い点をよく直視できる者は、天下になんとも少ないのである。
「辟」字は、「僻」字に読み替えるべきである。「惡而」の「惡」と、「敖」「好」は、いずれも去聲(きょせい)。「鮮」は上聲(じょうせい)。
「人」とは、一般の常人のことを言う。「之」字は、「於」と同じである。「辟」は、偏(かたよる)の意味である。親愛・賤悪・畏敬・哀矜・敖惰の五つの感情は、人の性質として当然起こるものである。しかしながら常人の感情はただただその向かうところのままに任せて反省を加えないので、必ず一つの方向に偏ってしまい、わが身を正しく精進させることができないのである。

なので諺(ことわざ)に、「人はわが子の欠点を知らず、わが苗の成長を知らぬ」とあるのだ。
「諺」の音は「彥(げん)」である。「碩」は叶韻(きょういん)で、「時」「若」の反切として読む。
溺愛する者は目がくらみ、利得をむさぼる者はあきることがない。盲目的な愛情は貪欲な利得と同じく人をかたよらせる害をなして、家庭をよくすることを妨げるゆえんである。

このことを、「自分自身の精進が完成しなければ、自分の家庭をよくすることはできない」というのである。

以上は、伝の八章である。自分自身を精進させて、自分の家庭をよくすることを説く。

《原文》
所謂齊其家在脩其身者、人之其所親愛而辟焉、之其所賤惡而辟焉、之其所畏敬而辟焉、之其所哀矜而辟焉、之其所敖惰而辟焉。故好而知其惡、惡而知其美者、天下鮮矣。
辟、讀爲僻。惡而之惡、敖・好、並去聲。鮮、上聲。
人、謂衆人。之、猶於也。辟、猶偏也。五者在人、本有當然之則。然常人之情、惟其所向而不加審焉、則必陷於一偏而身不脩矣。

故諺有之曰、人莫知其子之惡、莫知其苗之碩。
諺音、彥。碩叶韻、時若反。
諺、俗語也。溺愛者不明、貪得者無厭。是則偏之爲害、而家之所以不齊也。

此謂身不脩不可以齊其家。

右傳之八章。釋脩身齊家。

伝八章は脩身・斉家の章であ。この章あたりから以下は具体的な社会生活での教訓が始まり、現代人にも面白くなってくる。

本章については、本文より多くを語る必要はないであろう。家庭は、もとより社会の基礎であって互いに親しむべきである。だがわが身に反省がなければその親しい感情が偏るばかりであり、上のことわざの「わが子の欠点を知らぬ」ことになるだろう。それの裏返しで、わが子が自分の思う通りに育たないときには、怒って焦って辛く当たる。だがそれではことわざの「わが苗の成長を知らぬ」ことになるだろう。子に限らず、自らの周囲の人間を見る目も、目がくらむわなにおちいりがちだ。心で好いていながらしかもその悪い点をよく直視し、心で嫌っていながらしかもその良い点をよく直視できる者は、天下になんとも少ないのである。

自分の身近な周囲の人間と正しくつきあい、正しく評価することが、次の伝九章においてもっと大きな国家の運営においても基本の方針となることが言われる。そのこころは、温かい愛情と一歩引いた理性とのバランスがどちらでも大事なのだ、ということなのである。

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