非相篇第五(4)

By | 2015年6月16日
かの妄言を吐く者は、「いにしえの時代と今の時代とでは事情が違っていて、両者の時代では治乱の原因が異なっている」などと言い、大衆の者はこの妄言に惑わされる。だがかの大衆の者は愚かにして、理論もなければ推論を働かせることもできないのである。ゆえに彼らは、目の前で見ているものですら欺かれる。ましてや一千世代も前のはるか昔の伝承については、正しく理解できるはずもない。そして妄言を吐く者は、ごく身近なことですら人を欺きだますことができる。ましてや一千世代も前のはるか昔のことについて人を欺きだますことなどは、わけもないことだ。しかし、聖人はどうして欺かれるだろうか。聖人なる者は、己の心中の正道を基準として推論する者である。ゆえに、人間の不変の原理を基準として、古今の人間を推論することができる。万物の「性」から発現する「情」の法則を基準として、古今の「情」を推論できる(注1)。個物を分類して命名する基本原理を基準として、古今の分類・命名法を推論することができる(注2)。人間の功績への評価は、明確な言説をもって行う。万物の観察は、不変の正道をもって極めるのである。つまり、聖人は古今のことを一つの基準によって推論評価するのである。個物を分類して命名する基本原理が古今で変わらなければ、時代がいくら遠く離れていようとも、同じ原理が貫かれているはずなのである。こうしてよこしまで曲がった主張に直面しても迷うことがなく、不純物が混じった雑多な諸物を観察しても惑わされないのである。それは、己の心中の正道によって推論するからである。いにしえの時代に五帝(ごてい)(注3)より前の時代の統治者は、伝えられない。だが、それより以前には賢人がいなかったのではない。単に時代が古すぎて、伝承が絶えただけのことなのだ。また五帝の時代についても、その政策について伝わっていない(注4)。だが、彼らが善政を行わなかったのではない。単に時代が古すぎて、伝承が絶えただけのことなのだ。禹と湯については、いちおう政策が伝わっている。しかし周代の政策の詳細さには、遠く及ばない。禹や湯が、周代のような細かな善政を行わなかったのではない。単に時代が古すぎて、伝承が絶えただけのことなのだ。時代が古ければ古いほど、その伝承はますます粗略になり、時代が近ければ近いほど、その伝承はますます精密となる。粗略な伝承では大まかな要点を挙げるにとどまり、精密な伝承では詳細な内容が挙げられる。愚者どもは、古い時代の粗略な要点は聞くがその詳細な内容にまで推測が至らないので、古い時代をむやみに称えるのである。逆に近い時代の詳細な内容だけ聞いてその上位にある大きな原理にまで推測が至らないので、近い時代の揚げ足ばかり取るのである。まことに、詳細な文化といえども長い時間が経てば滅んでしまうのであり、精緻な音楽いえども長い時間が経てば散逸してしまうのである。


(注1)原文の「情」は、君子が過去の出来事を推測するための基準として挙げている。なので、正名篇の定義により万物の「性」の発現した現象として「情」を考え、このように訳した。
(注2)原文の「類」字について、荀子は法律制度を論じるときには法が明示しない事項についての類推(類例)判断、という意味を付ける(たとえば勧学篇(1)の注1)。一方荀子が個物の命名基準を論じるときには、「類」字は個物の正しい分類法、という意味を付ける(たとえば解蔽篇(4)の注4)。ここでは分類法の意味と捉えて訳した。
(注3)五帝に数えられる中華最初期の君主は、各テキストによって異同がある。『史記』五帝本紀では、黄帝(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・帝嚳(ていこく)・堯・舜を挙げている。ここでの荀子の書き方からいって、少なくとも禹に直接先行する君主である堯と舜を五帝に数えているのは確実であろう。その他三名として荀子が誰を想定していたのかは、わからない。
(注4)ここで荀子は、五帝について堯・舜以前の時代の政策が伝わっていない、と言いたいのであろうか、堯・舜も含んでその政策が伝わっていない、と言いたいのであろうか。もし堯・舜も含んで政策が伝わっていない、という意味なのであれば、荀子は孟子などが強調する堯・舜の政策の伝承について、これを史実として認めていなかったことになるだろう。
《原文・読み下し》
夫(か)の妄人(ぼうじん)曰く、古今情を異にし、其の以て治亂する者(注5)は道を異にす、と。而(しこう)して衆人焉(これ)に惑う。彼の衆人なる者は、愚にして說無く、陋(ろう)にして度(たく)(注6)無き者なり。其の見る所も、猶お欺かる可きなり、而(しか)るを況(いわ)んや千世の傳に於てをや。妄人なる者は、門庭の間(注7)も猶お誣欺(ぶぎ)す可きなり、而るを況んや千世の上に於てをや。聖人何を以て欺かれざるや。曰く、聖人なる者は、己を以て度(はか)る者なり。故に人を以て人を度り、情を以て情を度り、類を以て類を度り、說を以て功を度り、道を以て盡(じん)を觀る、古今度(ど)を一にすればなり(注8)。類悖(もと)らずんば、久しと雖も理を同じうす、故に邪曲に鄉(むか)いて迷わず、雜物を觀て惑わず、此を以て之を度ればなり。五帝の外傳人(でんじん)無し、賢人無きに非ざるなり、久しきが故なり。五帝の中傳政(でんせい)無し、善政無きに非ざるなり、久しきが故なり。禹・湯に傳政有るも周の察なるに若かざるなり、善政無きに非ざるなり、久しきが故なり。傳者(つたうること)久しければ則ち論(いよいよ)(注9)略にして、近ければ則ち論(いよいよ)(注9)詳なり。略なれば則ち大を舉げ、詳なれば則ち小を舉ぐ。愚者は其の略を聞きて其の詳を知らず、其の詳を聞きて其の大を知らざるなり。是を以て、文久しうして滅び、節族(せつそう)久しうして絕す。


(注5)原文「其以治乱者」。集解の王念孫は、韓詩外伝の引用においては「其所以治乱者」となっていることを指摘して、「所」が脱落していると言う。つまりここは、「其の治乱する所以(ゆえん)の者」のように解釈されるべきである。
(注6)「度」について楊注は、「測度」と言う。新釈の藤井専英氏は、忖度(そんたく)することと言う。
(注7)「門庭の間」とは、家の門や庭のようにすぐ近くのこと。
(注8)原文「古今一度也」。集解の王念孫は、「古今一也」に作るべし、と言う。「度」を残すならば、その意味は上の注6の忖度の意味ではなくて尺度(しゃくど)の意味となるだろう。忖度する行為ではなく、忖度するための尺度基準の意でなければならない。
(注9)集解の兪樾は、二つの「論」字は「兪」字の誤り、と言う。いよいよ。

上に訳したくだりは、荀子の歴史観を示している。荀子が妄言として斥けるものは、堕落史観を持つ者だけではない。堕落史観を持つ者は、今の時代がかつての時代よりも退廃堕落していると考える。荀子はそれに対して、過去が素晴らしく見えるのは時代が古くて伝承がほとんど抜け落ちているからであり、現代がみすぼらしく見えるのは時代が新しくて詳細な情報が得られるからである、と反論する。こうして荀子は堕落史観を斥けるのであるが、彼の批判は逆の進歩史観に対しても向けることができるであろう。すなわち進歩史観を持つ者は、かつての時代は暗黒時代であって時代が積み重なるとともに人間の社会は進歩しているのだ、と言うだろう。だが荀子の視点から言えば、それも妄言である。荀子が言うところでは、人類はそのよく伝わらない時代から正道は不変であって、その正道を理解して人間の社会を統治した賢人は、どの時代にも存在したはずだ。いつの時代にも共通なのは、正道を理解して礼法を制作運営する聖王と君子がいて、礼法により統治されてその恩恵を受けるべき小人がいるばかりなのだ。荀子は歴史が治世と乱世を交替に繰り返す、という運動法則を歴史に見ていたわけではないので、彼は循環史観の持ち主とはいえない。むしろ歴史を通じて不変の正道が常に存在していて、それを天下に普及させれば永遠の平和がやってくるまでのことだ、と考える、いわば歴史不変論者であるというべきであろう。荀子のような真剣なプラトニストは、このような考えを持つはずである。

荀子の「後王」の法を有効と考える考えもまた、彼の歴史不変的な視点に由来している。荀子にとっては、はるか古代と今の時代との間に、本質的な違いは認められないのである。単に荀子の生きた時代は、聖王と君子の正道がたまたま行われていない、不幸な時代であるに過ぎない。おそらく荀子は人類の過去の歴史において、そのような時代は何度もあったことであろう、と考えていたことであろう。このような時代に生きる智恵ある者は、歴史を通じて不変な人類の正道を叙述して、その普及に努めるだけであった。

非相篇のここから後はまた話題を代えて、君子の弁論術が論じられる。言いたいことは分かるのであるが、荀子は孟子と違って弁論で功績を立てた実績が記録に残されておらず、理論を本当に本人が実践できていたのかよく分からない。なので、私としては書かれている内容にあまり興味が持てない。ここ以降の非相篇の部分は、訳するだけに留めることにしたい。

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