人間の人間たるゆえんのものは、何であるか?それは、人間が区別する能力を持っているところにある。腹が減ったら食べることを欲し、寒かったら暖まることを欲し、疲れたら休むことを欲し、利益を好んで危害を嫌うのは、人間が生まれながらにして持っているところであり、人間が意図的に何かを行うことを待たずして自然にそうなるところのものであり、聖王の禹も悪王の桀も変わらないものである(注1)。ならば、人間の人間たるゆえんのものは、単に二足歩行して体に毛がないことではない。むしろ、区別する能力を持っているところにある。あの猩猩(しょうじょう)(注2)の姿形は、二足歩行して体に毛がある。しかし中華の君子はその肉を羹(あつもの。スープ)に入れて飲み、切り身にして食べる。ゆえに、人間の人間たるゆえんのものは、単に二足歩行して体に毛がないことではない。むしろ、区別する能力を持っているところにある。禽獣(ケダモノ)どもは、父と子はあっても父と子が親しみ合うことはない。雄と雌があっても、男女を分ける礼義はない。ゆえに人の道には区別が必ずあるのであって、その区別は規則に従った区分が最上であって、規則に従った区分は礼義が最上であって、礼義は聖王の制定した礼義が最上なのである。過去にあまたの聖王が現れたが、我々はそのどれに則るべきであろうか?礼の規則は、あまりに古いものであると散逸してしまって現代に行われない。音楽もまた、あまりに古いものであると伝承が絶えてしまって現代に伝わらない。現代の法律を守る役人たちは、礼を厳格に守りながら、かえってその精神を見失って礼の適用がうまくできなくなっている。こういった現状であるので、聖王の跡を見ようとするならば、今の世において燦然と輝いている手本に則るのが最もよい。それが、「後王」(注3)なのだ。「後王」という者は天下の君主であって、「後王」を捨て置いて古い時代のことを言うのは、たとえるならば自らの君主を捨てて他の君主に仕えるようなものであって、してはならないことである。ゆえに、千年前のことを見たいのであれば、まずは今現在のことを調べるべきであり、この世の億万の出来事を知りたいのであれば、まずは身近な一、二の出来事を明らかにするべきであり、はるか古代のことを知りたいのであれば、周王朝の制度を研究するべきであり、周王朝の制度を知りたいのであれば、諸君らの師が貴ぶ君子たちの業績を深く研究するべきである(注4)。古語に、「近きをもって遠きを知り、一をもって万を知り、微(かす)かな徴候をもって明らかな法則を知る」、とあるが、今言った原理のことを言うのである。
(注1)以上は、性悪篇で展開される人間の「性」が等しく悪である、という考えに基づいている。
(注2)想像上の動物。下の注6参照。しかし荀子の叙述を読むと、その肉と称するものが出回っていたことになる。 (注3)「後王」を私は他の篇では現代の君主、と訳すことにしているが、ここではあえて訳さず、下で考察したい。 (注4)原文読み下し「其の人の貴ぶ所の君子を審かにす」。集解の劉台拱は、其の人とは荀子の自称であり、貴ぶ君子とは孔子と子弓(非相篇(1)参照)である、と言う。増注の久保愛は、其の人とは孔子と子弓のごとき者である、と言う。劉台拱に従って訳す。 |
《原文・読み下し》 人の人爲(た)る所以の者は何ぞや。曰く、其の辨有るを以てなり。飢えて食を欲し、寒(こご)えて煖を欲し、勞して息(そく)を欲し、利を好んで害を惡(にく)むは、是れ人の生れながらにして有る所なり、是れ待つこと無くして然る者なり、是れ禹・桀の同じ所なり。然れば則ち人の人爲る所以の者は、特(ただ)に其の二足にして毛無きを以てするに非ざるなり、其の辨有るを以てなり。今夫(か)の狌狌(しょうじょう)の形笑(けいしょう)(注5)は亦二足にして毛あるものなり(注6)、然り而(しこう)して君子は其の羹(こう)を啜り、其の胾(し)を食す。故に人の人爲る所以の者は、特に其の二足にして毛無きを以てするに非ざるなり、其の辨有るを以てなり。夫の禽獸は父子有れども父子の親(しん)無く、牝牡(ひんぼ)有れども男女の別無し。故に人道は辨有らざること莫し。辨は分より大なるは莫く、分は禮より大なるは莫く、禮は聖王より大なるは莫し。聖王百有り、吾孰(たれ)にか法(のっと)らん。[故]曰く(注7)、文久しければ息(や)み、節族(せつそう)久しければ絕ゆ、と。法數を守るの有司、禮を極めて褫(ゆる)む。故(ゆえ)に曰く(注7)、聖王の跡を觀んと欲すれば、則ち其の粲然たる者に於てす、後王是れなり、と。彼の後王なる者は、天下の君なり。後王を舍(す)てて上古を道(い)うは、之を譬うるに是れ猶お己の君を舍てて、人の君に事(つか)うるがごときなり。故(ゆえ)に曰く(注7)、千歲を觀んと欲すれば、則ち今日を數え、億萬を知らんと欲すれば、則ち一二を審(つまびら)かにし、上世を知らんと欲すれば、則ち周道を審かにし、周道を知らんと欲すれば、則ち其の人の貴ぶ所の君子を審かにす、と。故(こ)に曰く(注7)、近きを以て遠きを知り、一を以て萬を知り、微を以て明を知る、とは、此を之れ謂うなり。 (注5)新釈は于省吾を引いて、「笑は肖に通じ、像の意」と言う。
(注6)原文「今夫狌狌形笑、亦二足而毛也」。増注、集解の兪樾と王先謙、ともに「毛」字の前に「無」字があるべきと言う。狌狌(しょうじょう。通常は「猩猩」と書く)は空想上の動物で、二足歩行して人間に似ているという。荀子は狌狌が人間に似ていて人間ではない、ということを強調しようとしているので、直前の文を受けて「無」があるべきだ、という推測である。しかし新釈の藤井専英氏は、ここで荀子は狌狌が二本足で歩くという点を強調したとみて、「無」字を加えない。後世の狌狌の想像図を見ると、毛があって二足歩行をする怪物である。なので王先謙は狌狌の顔面に毛が無いことを言っているのだ、と解釈している。原文のままを尊重する藤井説に、とりあえずは従っておく。 (注7)ここの文章には、「故曰」が四度表れている。このうちどれを「故(こ)に曰く」と読んで「故(ゆえ)に曰く」と読むべきであろうか。集解の王念孫は、最初の「故」字は衍字である、と言う。最後四つ目の「故曰」は引用であるので、「故(こ)に曰く」と読むしかない。真ん中二つの「故曰」は藤井専英氏、金谷治氏ともに「故(ゆえ)に曰く」と読んで、荀子の言葉とみなしている。最初の「故」字は王念孫に従い衍字と考え、以降は藤井・金谷両氏の読みに従っておく。 |
非相篇は、ここから「後王」についての叙述となる。「後王」のことを荀子が明確に定義してくれたらよかったのであるが、『荀子』各篇中に「後王」の語は散見されるにもかかわらず、その意味はついに厳密に明らかにされない。なので、「後王」がいったい何を指そうとしているのかについて、荀子研究者たちの間で意見が分かれている。二説に大別される。
- 「近時の王」説:楊倞、重澤俊郎氏、金谷治氏
- 「周王」説:劉台拱、王念孫、兪樾、久保愛、漢文大系(服部宇之吉)、新釈漢文大系(藤井専英氏)
「近時の王」説は楊倞が最初に注釈したものであるが、後世の劉台拱らの研究家は楊注を非となして、劉台拱は「後王」は周の文王・武王のことと解した。兪樾は、荀子は周末に生まれた者であるので文王・武王を「後王」とみなしたのであるが、もしこれが漢人であるならば漢の高祖を「後王」となし、唐人であるならば唐の太祖太宗を「後王」とみなすであろう、と言う。兪樾の言いたいことは、荀子は自らの生まれたのが周王朝の時代であったから当代の制度を尊重しているにすぎないのであって、文王・武王の制度を固定して尊重しているわけではない、というものである。
これに対して、楊倞の注を擁護するのは重澤俊郎氏である。
(重澤『周漢思想研究』90-91ページ、大空社、1998年。原本は昭和18年の出版。引用のカッコは引用者の追加)
こうして、王制篇において「道は三代に過ぎず、法は後王に貮(たが)わず」と荀子が言うところについて重澤氏は、「これ先王の道に価値を認めると同時に其の具体的形態たる点に於て後王の法を尊重するが為に外ならない」と評する。
重澤氏の主張を言い換えるならば、荀子は人間社会を統治するための正道は人類史において不変であり、それが先王の道である。同時に、いにしえの時代においても現代においても人間社会を統治するための合理的な法律は不変の原理に従っているのであり、荀子の生きた戦国時代においても不完全ではあるがそれなりに合理的な法律は立てられている。正論篇で荀子は「いにしえの時代には厳格な体刑はなかった」という論者に反論して、厳格な体刑こそがいにしえの治世をもたらしたのだ、と主張した。このように荀子は国家の法については厳格であることを理想としていた。彊国篇で荀子が秦国の統治を一点を除いて絶賛したのは、秦国では法による統治がすみずみにまで行き渡っていたからであった。秦国によって足りない一点とは、儒家の統治術であった。正名篇で荀子は「後王」がなすべき政策として、殷・周の法律と文化的装飾の中からよいものを選択して、名称については現代の実情に合わせて適宜定義するべし、と言った。これは、過去の文化と現代の実情から穏当なものを取捨選択して合理的な礼法を整えよ、という荀子の主張を示している。
したがって、荀子の「後王」が指す対象は、やはり重澤氏が言うとおりのものであったと私は考えたい。荀子が「後王」の語を明確に定義しなかったのは、あるいは儒家の伝統である堯・舜・禹・湯・文・武・周公などの先王たちを賞賛して現代を批判する思想的立場に捉われて、現代の国家において施行されている法制度にも合理的な側面がありうる、という主張を明確に打ち出せなかったからであるかもしれない。よって「後王」の制度とは、荀子の時代において合理的であると認められる文化・礼義・法律の総体を指しているはずである、と私は考える。荀子は盲目的な過去の伝統崇拝者ではなく、人類の歴史は不変の正道に従っていて、過去の時代の制度文物を現代において尊重するべきなのは、そこに人類の合理的な正道が見出せるからにすぎない、という立場に立っていたと私は考える。非相篇のここから後に続く議論においては、人類の歴史を通じた不変性が論じられる。
だがそれならば、いま荀子の「後王」が指すところから文化礼義を取り去ったならば、商鞅(しょうおう)ら法家思想家たちの制定した法律だけが残ることになるだろう。荀子は法家思想を批判するが、彼らの制定した法律の合理性を否定することは、荀子にもできるはずがない。よって荀子の門人から李斯・韓非子の法家思想が続いたことは、やはり思想的系譜上の必然というべきであった。