非相篇第五(2)

By | 2015年6月12日
人には三つの不祥がある。一つ、年少にして年長者に従おうとしないこと。二つ、身分低きにして身分高き者に従おうとしないこと。三つ、資質愚劣でありながら賢明な者に従おうとしないこと。これが、人の三つの不祥である。

人には三つの必窮がある。人の上に立ちながら下を愛することができず、人の下に立ちながら好んで上を批判しようとすることは、人の必窮のその一である。面と向かっているときは従わず、裏に回れば人を侮ってそしることは、人の必窮のその二である。知能も行為も浅薄であり、是非の判断も人並みよりずっと劣っているにも関わらず、仁人を推挙することができず、知能ある士を尊ぶこともできないことは、人の必窮のその三である。人にしてこの必窮三箇条を備えている者は、人の上に昇れば必ず危機に陥り、人の下に降りれば必ず滅びが待っているだろう。『詩経』に、この言葉がある。:

雪がいかほど降ろうとも
日の光あらば消ゆるもの
君は光となりもせず、愚者を斥くこともせず
雪は居残り降り積もり、屡(しばしば)驕るばかりなり
(小雅、角弓より)

このように、必ず窮してやがて滅ぶであろう。

《原文・読み下し》
人に三不祥有り。幼にして長に事(つか)うるを肯んぜず、賤にして貴に事うるを肯んぜず、不肖にして賢に事うるを肯んぜず、是れ人の三不祥なり。人に三必窮有り。上と爲りて則ち下を愛すること能わず、下と爲りて則ち好んで其の上を非とするは、是れ人の一必窮なり。鄉(むか)えば則ち若(したが)わず(注1)、偝(そむ)けば則ち之を謾(あなど)るは、是れ人の二必窮なり。知行淺薄にして、曲直有(また)以(すで)に縣(けん)す(注2)、然り而(しこう)して仁人をば推すこと能わず、知士をば明(めい)する(注3)こと能わざるは、是れ人の三必窮なり。人此の三數行(さんすうこう)(注4)有る者は、以て上と爲れば則ち必ず危く、下と爲れば則ち必ず滅ぶ。詩に曰く、雨雪瀌瀌(ひょうひょう)たるも、宴然(えんねん)(注5)なれば聿(ここ)に(注6)消ゆ、肯(あえ)て下隧(かすい)(注7)すること莫く、式(もって)居りて屢(しばしば)驕る、とは、此を之れ謂うなり。


(注1)集解の王先謙は、「若」は「順」なり、と言う。
(注2)元本は「相」字がない。
(注3)集解の王念孫は、「明」は尊ぶことの意と言う。
(注4)集解の王引之は「三」字は衍字と言う。しかし新釈の藤井専英氏は「数」は箇条、項目の意であり「三数行」で三箇条の行為と言う。藤井説に従い「三」字を削らない。
(注5)現行の標準『詩経』テキストである毛詩本は、「見晛(けんけん)」に作る。
(注6)毛詩本は、「聿」を「曰」に作る。意味は同じ。ここに。
(注7)毛詩本は、「隧」を「遺」に作る。

上に訳したくだりは、前後の叙述とつながっていない、単独の短い文章である。『詩経』の引用で締められる荀子の論述のいつものパターンに従っているので、本来は他篇のどこかに組み入れられるべき文章なのであろう。

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