「一言、言わせてもらいましょう。 世が乱れ善を憎むる末世に、これを止めることもせず、 賢者をねたんで忌み嫌い、姦人使い続けたら、なんで滅びずに済みましょう。 「ああこりゃひどい、世も末だ。 まずは歪んだ道を往き、聖知を用いず愚と謀り、 前の車が突っ転ぶ、様をその目で見ながらも、いまだ反省しないとは、いつになったら覚めるのか。 「反省もせず、覚めもせず、 間近の災難に目をつぶり、迷って指針も見失い、上下の秩序もおろそかに、 下の忠義の進言も、上に達することはなく、耳目を覆い戸を塞ぐ。 「君への門戸が、塞がれば、 政治は惑うばかりなり。闇夜が続き行き惑い、是非もひっくり返るだろう。 徒党を組んだ小人が、揃って君を欺いて、正直の士は憎まれる。 「正義の道を、憎むから、 心に基準などありゃしない。君の曲がった御心を、すでに諫める人もなく、 我一人だけ美とすれば、身が安泰のわけもない。 「自戒すること、知らざれば、 どうせ何度も繰り返す。諫められても聞きもせず、過ち重ねて悔いもせぬ。 さすれば讒夫(ざんぷ)の出番なり、奴らは甘言に事欠かぬ、へつらい媚びて、嘘をつく。 「へつらう奴の、悪行は、 疲れて止むことすら知らぬ。君寵争い賢者をねたみ、これをあくまで罵倒する。 功績ねたんで賢者をけなし、徒党を組んで主君をおおう。 「上の耳目が、塞がれば、 輔弼の臣もいなくなる。代わりに昇る側近は、讒夫の輩ばかりなり。 もはや君主の手に負えず、郭公長夫(かくこうちょうふ)(注1)の災難で、厲王(れいおう)(注2)が彘(てい)に流された、末路が待っているだろう。 「周の幽王・厲王が、 敗れて死んだ原因は、諫めを聴かず忠義の人を、害したゆえに他ならず。 ああなぜ我は、時を得ず、こんな乱世に生まれたか。 「忠義の道を、遂げようと、 我が諫言申しても、君は取り挙ぐこともなし。 やがて伍子胥(ごししょ)(注3)の後を追い、この身に凶事をたまわりて、進言諫言聴かれずに、属鏤(しょくる)の剣で自害して、首、江中に棄てられん。 「かつての人の、失政を、 鑑に自ら戒めば、何が治乱のもとであり、何が是であり非であるか、よくよく分かることでしょう。 これにて終わる、労働歌、その意お悟り願います。」 (注1)集解の盧文弨は、郭公長父とは『呂氏春秋』にある虢公長父のことであると言う。増注は加えて古谷鬲を引用して『竹書紀年』厲王三年に虢公長父が淮夷(わいい。淮水流域の蛮族)を伐った記録を指摘する。虢公長父とは、虢(かく)国の諸侯である長父という名の家臣であろう。厲王の佞臣ということである。 (注2)歌に出てくる厲王・幽王をまとめて解説する。厲王は、いわゆる西周(BC1122?-BC770)後期の王で、史記によれば暴虐奢侈傲慢であり、巫(ふ。神に仕える神職)を用いて民を監察し、王を誹謗する民を報告させて殺したという。家臣の召公がその悪政を諫めても、聞かなかった。耐えかねた人民が蜂起して王を襲い、王は彘(てい)に逃亡して、そこで死んだ。その後は家臣の召公(しょうこう)と周公(しゅうこう。文王の子の周公とは別人)の両名が一時的に政治を執り、これを共和(きょうわ)と呼んだ。厲王の太子は召公によって育てられて、成長すると王位に就けられた。これが宣王であり、宣王の時代に周王朝は再び権威を取り戻した。幽王はその宣王の子で、西周最後の王。史記によれば襃姒(ほうじ)という名の妃を寵愛したが、襃姒は笑うことを好まなかった。あるとき有事に備えて諸侯を都に呼ぶためののろしを間違って点火し、駆け付けた諸侯が間違いだったと知って呆然とした様を見て、襃姒が大いに笑った。幽王はそれを喜び、その後理由もなくのろしを挙げ続けて諸侯をだまし、襃姒に媚びた。諸侯はついに王ののろしを信じなくなった。幽王を恨んだ家臣が蛮族の西夷(せいい)・犬戎(けんじゅう)を連れて都を襲った。幽王はのろしを挙げたが、諸侯はもはや誰も駆け付けなかった。幽王は、捕らわれて殺された。その後諸侯は、襃姒の子ではない幽王の太子を王位に就けた。平王である。平王は西周王朝の拠点であった関中盆地が蛮族に蹂躙されたので、これを避けて東の洛陽に遷都した。歴史学的には、この時から後の周王朝を東周(BC770-BC255)と呼び、この時から春秋時代が始まったとみなされる。 (注3)伍子胥は、成相篇(1)参照。呉王夫差は伍子胥に属鏤の剣を賜って、これを自害させた。 |
《読み下し》 願わくは辭を陳ぜん(注4)、世亂れて善を惡(にく)むも此を治めず、隱諱(いんき)して賢を疾(ねた)み、良(なが)く姦詐を由(もち)うれば(注5)、災(し)(注6)無きこと鮮(すくな)し。 患難なる哉(かな)、阪(はん)(注7)を先と爲す(注8)、聖知を用いず愚者と謀り、前車已に覆りて、後未だ更(あらた)むるを知らず、何ぞ覺(さと)る時あらん。 覺悟せず、苦を知らず、迷惑して指(し)を失い上下を易(か)え、中(ちゅう)(注9)上に達せず、耳目を蒙揜(ぼうえん)して、門戶を塞ぐ。 門戶塞がりて、大いに迷惑し、悖亂(はいらん)・昏莫(こんぼ)終極せず、是非反易し、比周して上を欺き、正直(せいちょく)を惡む。 正直を惡みて、心に度無く、邪枉(じゃおう)・辟回(へきかい)にして道途を失うも、已に尤(とが)むる人無く、我獨り自ら美とす、豈(あ)に[獨](注10)故無からんや。 戒むることを知らざれば、後に必ず有(また)あり(注11)、恨後(こんふく)(注12)過を遂げて肯て悔いざれば、讒夫(ざんぷ)多く進み、言語を反覆して、詐態(さたい)を生ず。 人之れ態(たい)(注13)にして、備(はい)することを(注14)如(し)らずして(注15)、寵を爭い賢を嫉みて惡忌(おき)を利(むさぼ)り(注16)、功を妬み賢を毀(こぼ)ち、下は黨與(とうよ)を歛(あつ)め、上は蔽匿(へいとく)す(注17)。 上壅蔽(ようへい)すれば、輔埶(ほせい)を失い、讒夫を任用し制すること能わず、孰公長父(かくこうちょうふ)(注18)の難に、厲王(れいおう)彘(てい)に流さる。 周の幽・厲、敗るる所以は、規諫を聽かず忠を是れ害すればなり、嗟(ああ)我れ何人ぞ、獨り時に遇わず、亂世に當(あた)る。 (兪樾に従って改める:)衷を對(と)げん(注19)(注20)と欲するも、言從われず、恐らくは子胥(ししょ)と爲りて身凶に離(あ)い(注21)、進諫聽かれず、剄(けい)するに獨鹿(どくろく)(注22)を而(もっ)てして(注23)、之を江に棄てられん。 往事を觀て、以て自ら戒めば、治亂・是非亦識る可し、成相に託して、以て意を喻(さと)す(注24)。 《原文》 ※[]内は原文にある字を削る。 (注4)増注の久保愛および集解の王引之は、「願陳辭」の下に三字の脱落を指摘する。しかし私が思うに、冒頭の三字が欠落していると考えたほうがよいのではないか。古代の文書は竹簡に書かれていたが、竹簡を編集した際に前の札に冒頭の三字が書かれていて、この札が散逸したことがありえたのではないかと思う。第一行の韻はお決まりの「請成相」の句とは合わないので、もしあったとすれば別の形の起句であっただろう。
(注5)楊注はここで「長く姦詐を用いる」と注する。よって、「良」は「長」の意であり、「由」は「用」の意である。集解の王念孫は「良」字は誤りとみなすが、新釈は広雅釈詁を引いて「良」字に「長」の意があることを指摘している。 (注6)増注は、「災の叶音(きょうおん。古代の韻文を解釈するとき、後世の韻と合わないときに発音を変えて読むこと。協音とも書く)は菑」と注する。すなわち成相篇(1)注6と同様に、「災(し)」と読むべきであろう。 (注7)楊注は「阪は反と同じ」と言う。しかし新釈の藤井専英氏は、「阪」をかたむくの意に取る。「下文に『前車已覆』『後未知更』と続くのに照らして、傾斜した悪路と見るのが妥当であろう」と言う。新釈に従う。 (注8)「先」では韻が合わない。集解の郝懿行は「先」字の先古音は「西」であり、韻が合うと注する。王念孫は「先」は疑うはまさに「之」に作るべしと言う。増注は桃井源蔵を引いて、ここは「阪先爲」に作るべし、と言う。選定が難しいが、郝懿行の意見に従って「先」字のままにしておく。 (注9)宋本・元本ともに「中」を「忠」に作る。増注本はこれらに従って「忠」字に作る。「忠」の意味で取ってよいと思われる。 (注10)楊注或説は、「下の獨字無からん」と言い、増注・集解の盧文弨は楊注或説に賛同する。これらに従い「獨」字を衍字として削る。 (注11)増注、集解の盧文弨ともに「有」は読んで「又」と曰う、と言う。 (注12)集解の王念孫は、「恨」は「很」と同じで、「後」は「復」の誤りでまた「愎」と同じと言う。これに従う。「很愎」を王念孫は「諫めて従わず、以て其の過を遂ぐるなり」と言う。 (注13)「態」はおもねりへつらうこと。臣道篇(1)の態臣を参照。 (注14)猪飼補注は「備」はまさに「憊(はい)」に作るべし、と言う。これに従いたい。疲れること。 (注15)楊注は、「如」はまさに「知」となすべし、と言う。これに従う。 (注16)「利」について新釈は「むさぼる」と読んで、賢者を忌み嫌うことを貪るの意に解し、王念孫の「利は相字の誤り」の説を取らない。新釈に従う。 (注17)「匿(とく)」では「態」「備(または憊)」「忌」と韻が合わない。増注は「匿の叶は女利の反」と注し、ジと読ませているが、その根拠は私には分からない。 (注18)楊注或説は、「孰」はあるいは「郭」となす、と言う。集解の盧文弨は、「郭」と「虢」は古字通ず、と言う。 (注19)集解の兪樾は、「對(対)は遂なり」と言う。これに従う。 (注20)原文「欲衷對」。このままでは韻が合わないので、集解の郝懿行は「對(対)」は「封」字の誤りを疑う。兪樾は、字を並び替えて「欲對衷」とするべきと言う。増注も朱熹の同意見を引く。後者の説を取って、字を並び替えた形で読み下す。 (注21)増注は、「離」は「遇」なり、と言う。 (注22)楊注は、「獨鹿は屬鏤と同じ」と言う。属鏤(屬鏤、しょくる)とは、呉王夫差が伍子胥に賜って自害を命じた剣の名。 (注23)集解の王念孫は、「而」は「以」と同じ、と言う。増注本は「以」字を採っている。 (注24)荻生徂徠は、四字の脱落を指摘する。だが前の第三歌とも共通した末尾行の脱落であり、これも破格の技巧であると考えたほうがよいのかもしれない。 |
第四歌は、対照的に暴君闇君の下の乱世を述べる。周の厲王・幽王は国を傾け滅ぼした君主として、すこぶる評判が悪い。しかし君主だけが原因で国が滅びたわけでは、なかっただろう。西周時代から東周時代の移行期にはいわゆる中原地方の経済力と文化水準が上昇して、諸侯国が独自に領国経営を始める機運が起こった。まず中原地方の中央に位置する鄭国が強大となり、続いて斉、晋の両国が覇権を握り、非中華諸国の楚国・呉国・越国までが中華文明の刺激を受けて覇権争いに参入するようになった。諸侯分立の春秋時代への移行は、社会の構造的な変化が背景にあって、結果として周王朝の統一が失われたのであろう。それは、わが国の歴史が戦国時代に突入した原因と、同じ歴史的経過であったに違いない。わが国の戦国時代の到来を、応仁の乱を招いた足利義政の失政だけに求めることなどはナンセンスである。むしろ地方の領主たちの経済力と文化水準が上昇して室町幕府の統制に従わなくなったことが、約1世紀の戦乱の時代の根本的な原因であった。中華世界では始皇帝が武力によって諸国分立時代を終わらせたように、日本の分裂時代もまたそれを終わらせたのは信長・秀吉・家康の武力であった。