鋳型が正しく、溶かす銅と錫(すず)が優良で、工人の技術がよく、しかも火がよく調整されていれば、鋳型を開けば名刀の莫邪(ばくや)となるだろう(注1)。しかしながら、ここから鋳物のかすを取り去って研磨しなければ、縄を断つことすらできないだろう。しかし鋳物のかすを取り去って研磨すれば、盤盂(ばんう。古代の青銅器の一で、食物を盛る盆)を断ち切り牛馬の首を刎ねることは、簡単なことである。国家というものもまた、強国のもとを鋳型から開いたようなものである。教えず誨(さと)さず調整せず斉一にしなければ、国を守ることもできないし打って出て戦うこともできない。だがこれを教えて誨し、調整して斉一にするならば、兵は強くて城は固くなり、敵国はあえて干渉しようとはしなくなるだろう。国家というものもまた、研磨するものがある。礼義がそうであり、礼に従った各規則(注2)がそうである。ゆえに人の命は天にあり、国の命は礼にある。人君なるものは、礼を尊び賢人を尊べば、王者となる。法を重んじて人民を愛すれば、覇者となる。利を好んで詐りが多ければ、危険に陥る。権謀ばかりで人民をつき転ばして陰険な策略にふけっていたら、滅びる。
威には、三者がある。道徳の威、暴察の威、狂妄の威である。この三つの威については、必ず熟考しなければならない。礼楽が治まり、礼義に応じた身分の分別が明らかに行われ、事業を起こすときには適切な時を選び、人を愛して人を利用する政策は法(注3)に従う。このようであれば、人民は君主を尊ぶことが天帝のようとなり、これを仰ぐこと天を仰ぐがごとくとなるであろう。これに親しむことは父母のようであり、これを畏れることは神明のごとくとなるであろう。ゆえに、褒賞を用いずとも人民は励み、刑罰を用いずとも威が行われるのである。これが、道徳の威である。 公孫子(注5)は、こう言った。 (注1)古代の剣は青銅製で、鋳物である。古代中国では鍛造術より先に鋳造術が発達して、良質の青銅剣が作られた。(注2)原文「節奏」。この語は礼義の下位概念として使われている。楊注は法度のことと言うが集解の王先謙は節奏は法度を含む概念であると言って楊注に反対している。(注3)原文「愛利則形」。藤井専英氏は「形」を外に形としてあらわれる、と言う解釈を取るが、集解の郝懿行の「形」は「刑」すなわち法のことである、という解釈を取りたい。これに従って訳す。(注4)原文「敵中則奪」。楊注は敵人が中道を得ればすなわちその国を奪われる、と言う。集解の兪樾は、「敵」を「適」と読む。しかし両者の解釈とも、釈然としない。猪飼補注は敵これを撃てばすなわち民その気を奪わる、と読む。これが一番もっともらしいので、猪飼補注を取る。(注5)詳細不明。猪飼補注は公孫子とは人名ではなくて書名であり、漢書芸文志にある儒家の『公孫尼子』二十八篇のことであろう、と言う。ならば荀子は、ここで書中の主張に論駁したことになる。いちおう楊注以来の通説に従い、人の言葉に対して反論したことにする。(注6)蔡国は周の武王の弟である蔡叔度(さいしゅくど)を始祖とする国。春秋時代中期にはすでに楚の侵略を受けていたが、春秋時代の末期、楚の恵王四十二年に楚国によって亡ぼされた。
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《原文・読み下し》 刑范(けいはん)(注7)正しく、金錫(きんせき)美に、工冶巧に、火齊得れば、刑を剖(ひら)きて莫邪(ばくや)なり。然り而(しこう)して剝脫せず、砥厲(しれい)せざれば、則ち以て繩を斷つ可からず。之を剝脫し、之を砥厲せば、則ち盤盂(ばんう)を劙(れい)し、牛馬を刎ねるも忽然たるのみ。彼の國なる者は、亦强國の刑を剖きしものなり。然し而して教誨せず、調一せざれば、則ち入りては以て守る可らず、出でては以て戰う可からず。之を教誨し、之を調一すれば、則ち兵勁(つよ)く城固く、敵國敢えて嬰(ふ)れざるなり。彼の國なる者も亦砥厲有り、禮義・節奏是れなり。故人の命は天に在り、國の命は禮に在り、人君なる者は、禮を隆(とうと)び賢を尊びて王たり、法を重んじ民を愛して霸たり、好利・多詐にして危く、權謀・傾覆・幽險にして亡ぶ。 威に三有り、道德の威なる者有り、暴察の威なる者有り、狂妄の威なる者有り。此の三威なる者は、孰察(じゅくさつ)せざる可らざるなり。禮樂は則ち脩まり、分義は則ち明らかに、舉錯(きょそ)は則ち時にし、愛利は則ち形あり、是の如くなれば、百姓是を貴ぶこと帝の如く、之を高しとすること天の如く、之を親しむこと父母の如く、之を畏るること神明の如し。故に賞用いずして民勸み、罰用いずして威行われ、夫れ是を之れ道德の威を謂う。禮樂は則ち脩まらず、分義は則ち明らかならず、舉錯は則ち時ならず、愛利は則ち形ならず、然り而して其の暴を禁ずるや察、其の不服を誅するや審、其の刑罰重くして信あり、其の誅殺猛にして必し、黭然(あんぜん)として之を雷擊するが而(ごと)く(注8)、之を牆厭(しょうよう)するが如し。是の如くなれば、百姓劫(おびや)かさるれば則ち畏を致し、嬴すれば則ち上に敖(おご)り、執拘(しゅうこう)すれば則ち最(あつま)り(注9)、閒(けん)を得れば則ち散ず。敵中なれば則ち奪い、之を劫(おびやか)すに非ざれば形埶(けいせい)を以てせず、之を振わすに誅殺を以てするに非ざれば、則ち以て其下を有すること無し。夫れ是を之れ暴察の威と謂う。人を愛するの心無く、人を利するの事無くして、日に人を亂るの道を爲し、百姓讙敖(かんごう)すれば、則ち從いて之を執縛(しゅうばく)し、之を刑灼(げいしゃく)(注10)し、人心を和せず。是の如くなれば、下は比周・賁潰して、以て上を離る。傾覆・滅亡は、立ちどころにして待つ可きなり。夫れ是を之れ狂妄の威と謂う。此の三威なる者は、孰察せざる可らざるなり。道德の威は安强を成し、暴察の威は危弱を成し、狂妄の威は滅亡を成すなり。 公孫子曰く、子發は將として[西](注11)蔡を伐ち、蔡に克ちて蔡侯を獲らえ、歸りて命を致して曰く、蔡侯は其の社稷を奉じて、楚に歸す。舍(しゃ)(注12)二三子に屬して、其の地を治む、と。既にして、楚其の賞を發す。子發辭して曰く、誡を發し令を布きて敵退く、是れ主の威なり。徙舉(しきょ)相攻めて敵退く、是れ將の威なり。合戰力を用いて敵退く、是れ衆の威なり。臣舍宜しく衆威を以て賞を受くべからず、と。是を譏(そし)りて曰く、子發の命を致すや恭、其の賞を辭するや固。夫れ賢を尚び能を使い、有功を賞し、有罪を罰するは、獨り一人之を爲すに非ざるなり、彼は先王の道なり、人を一にするの本なり、善を善とし惡を惡とするの應なり、治必ず之に由る、古今一なり。古は明主の大事を舉げ、大功を立つるや、大事已に博く、大功已に立てば、則ち君は其の成を享けて、羣臣は其の功を享け、士大夫は爵を益し、官人は秩を益し、庶人は祿を益す。是を以て善を爲す者を勸み、不善を爲す者を沮(はば)み、上下心を一にし、三軍力を同じうす。是を以て百事成りて、功名大なり。今子發は獨り然らず、先王の道に反し楚國の法を亂し、興功の臣を墮(こぼ)ち、受賞の屬を恥(はずか)しめ、族黨に僇(りく)無くして、而も其の後世を抑卑す。案(すなわ)ち獨り以て私廉と爲す。豈に過つこと甚しからざるや。故に曰く、子發の命を致すや恭、其の賞を辭するや固、と。 |
【この篇は、「議兵篇第十五」の後に読んでいます。】
彊国篇は、興味深い篇である。
斉国と秦国の宰相との荀子の対話があって、歴史的証言としても貴重である。中でも荀子が秦を訪問して応候范雎(はんしょ)と対話した内容には、普段の儒家イデオロギーから出てくる秦国への厳しい批判とは違って、荀子が実際に秦国を見聞したときに印象した秦国の国情が垣間見られて、興味深い。荀子は実際に目で見た秦国が、儒家のイデオロギーから見た国とは違っていることを、告白せざるをえなかった。秦国が勝利した原因は、兵が強いとか人民を法で縛っているとか、そのような原因だけではない。そもそもが清潔な官僚制度を持ち、質朴な人民を持つ、中原地方にはない古きよき美俗を持っていた国であったからなのだ。秦国を実見したとき、荀子は秦国に中華を統一する王者を期待せざるをえなくなったろう、と私は考える。
しかしここに掲げる子發に対する荀子の批判は、いかがであろうか。
荀子も批判しているように、将軍ともあろうものが褒美を辞退しては、褒美をもらった同僚は気まずいであろうし、下の者は褒美を求めにくくなる。だから責任ある行為とはいえない。これは、正論であろう。加えて、ここで公孫子は子発のことを美談として伝えているはずである。だがそれが時の君主たちによって悪用されて、「子發のように恩賞を求めず働くのが、真の武将である。恩賞などとガツガツ言うのは見苦しい限りで、人間として外れている」とか言って恩賞を出さない言い訳にも使われかねない。だから荀子は躍起になって子発の美談をただの意固地であると批判した、とは言える。しかし先王の道に反し、楚国の法を乱して、子孫にも悪いことをした、という荀子の言葉は、レトリックとはいえ鼻白むものがある。このようなことを書くから、荀子は後世の人間たちに軽蔑されたのであろう。
個人の美談はシステムにとって害悪である、という醒めた視点は、荀子の弟子である韓非子を見ているかのようである。韓非子は法による社会の統制を主張する立場から、法のシステムに従わない人間の行動はそれが善意からなる行為であっても罰するべきであると言い、韓の昭公のエピソードを挙げた。
(『韓非子』二柄篇より)
師の荀子のここでの批判と、弟子の韓非子の昭候を称える論理は、非常に接近している。やはり両者は、子弟である。荀子も韓非子も間違いなく国家運営のための真理を言っているのであり、その点では有益な指摘である。両者は、人間よりもシステムを優先する視点を持つのである。
だがその視点に立つことによって、人間の持つ自発性は、むしろ見えなくなってしまう。日本の武士たちは、子發のような謙譲の精神を美徳としていたのではなかっただろうか。古代ローマ人たちもまた、独裁官を辞して農民に帰ったキンキナトゥスの謙虚な武勇を、美談として称えていた。子發のエピソードは、おそらく古代中国でも人気があったのであろう。荀子は人々が子發の行為に胸のすく思いをしていたところに危険を感じて、こうして批判したのであろう。その意図は、よく分かる。しかしながら子發やキンキナトゥスを美しいとして称える精神が死んでしまったら、おそらくその社会は四分五裂してしまうであろう。礼法が強い国を作るのではない、その逆なのである。むしろ強い社会が礼法を採用したとき強い国にもなれる、と言うべきではないだろうか。