四十六 天下には、どこの国でも俊秀の士がいるし、どんな時代でも賢人がいるものだ。だが道に迷う者は正しい道を問おうとせず、水に溺れる者は渡るべき径路を問おうとしない。亡国の君主は、自分一人の力を過信して独断専行しようとするものだ。『詩経』に、この言葉がある。:
この言葉は、君主は広く意見を聞かなければならない、という戒めなのである。 四十七 ※王制篇(1)に本章と同じ「其の法有る者は法を以て行い、法無き者は類を以て舉す」の句がある。原文の「類」は王制篇(1)注2に準じて「法(功罪)の原理による判断」と訳した。
四十八 ※本章は、『礼記』王制篇にほぼ同じ文が見える。
四十九 ※大略篇には、本章以下三章のような荀子の言葉ではない断章もいくつか含まれている。この孔子の言葉などは、有力な為政者たちを列挙した批評としてよくまとまり過ぎている感を与える。晏子以下のくだりは、後世に付加されたのかもしれない。
※子家駒(しかく)は、楊注によると魯国の大夫であるという。晏子は晏嬰(あんえい)のことで、春秋時代後期の斉国の宰相。斉の景公を補佐してよく政治を行い、管仲とともに斉国の名宰相として名を残した。子産は、春秋時代後期の鄭国の宰相。孔子の一時代前の政治家で、孔子に大きな影響を及ぼした。孔子が彼を「恵人」と批評したことは論語憲問篇にも見える。管仲は、春秋時代中期の斉国の宰相。管仲に対する荀子の評価は、仲尼篇・王覇篇・臣道篇に表れている。それは、歴史上の家臣たちの中では次点の高い評価を与えながらも、最高ランクである王者を補佐すべき家臣には足りない、というところである。 五十 ※荀子は、孟子を非十二子篇・性悪篇で批判する。この章は、孟子のエピソードを肯定的に取り上げた珍しい章である。斉の宣王は『孟子』梁恵王章句および公孫丑章句において、孟子の主要な問答相手として表れる。孟子は大国斉の王に説得を試みたが、成果なく撤退した。
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《読み下し》 天下國ごとに俊士有り、世ごとに賢人有り。迷う者は路を問わず、溺るる者は遂(すい)(注1)を問わず、亡人は獨を好めばなり。詩に曰く、我が言は維(こ)れ服(ふく)なり、用(もっ)て笑いと爲す勿(なか)れ、先民言えること有り、芻蕘(すうじょう)に詢(はか)る、とは、博く問うことを言うなり。 法有る者は法を以て行い、法無き者は類を以て舉(きょ)す。其の本を以て其の末を知り、其の左を以て其の右を知り、凡百の事理を異にして相守るなり。慶賞・刑罰は、類に通じて而(しか)る後に應じ、政敎・習俗は、相順(したが)いて而る後に行わる。 八十の者は一子は事(し)せず(注2)、九十の者は家を舉(こぞ)って事(し)せず、廢疾にして人に非ざれば養われざる者は、一人は事せず、父母の喪には、三年事せず、齊衰(しさい)・大功(たいこう)には三月事せず、諸侯に從いて不(きた)る(注3)と、新(あらた)に昏(こん)有るとは、朞(き)(注4)事せず。 子(注5)、子家駒(しかく)を謂う(注6)、續然(ぞくぜん)(注7)として大夫なるも、晏子に如(し)かず。晏子は功用の臣なるも、子產(しさん)に如かず。子產は惠人(けいじん)なるも、管仲に如かず。管仲の人と爲りや、功を力(つと)めて義を力めず、知を力めて仁を力めず、野人なり、以て天子の大夫と爲る可からず、と。 孟子三たび宣王に見(まみ)えて、事(こと)(注8)を言わず。門人曰く、曷爲(なんす)れぞ三たび齊王に遇いて事を言わざる、と。孟子曰く、我先ず其の邪心を攻(おさ)む、と。 (注1)楊注は、「遂は徑隧を謂う、水中渉る可きの徑なり」と言う。大略篇十章と同じく、水を渉ることができる径路のことを言う。
(注2)原文「不事」。礼記王制篇では「不從政(政に従わしめず)」に作る。「事」は力役のことで、「政」は征・税と同じでやはり力役税のことである。 (注3)楊注は、「不」はまさに「來(来)」となすべし、と言う。 (注4)「朞」は「期」と同じで、一年のこと。 (注5)楊注は、「子は孔子」と注する。その通りであろう。 (注6)原文「子謂子家駒」。金谷治氏は、「子謂う、子家駒は、、」と読んで、この章は子家駒、晏子、子産、管仲の四者を並列して比較した言葉であると捉えている。増注ほかの通説は上の読み下しのように読んで、孔子が子家駒について批評し、その後にその批評を明確化するために晏子以下の人物について続けて言った、という捉え方となる。通説に従う。 (注7)集解の郝懿行は、「續(続)然」は「庚然」であって、剛強不屈の貌、と言う。 (注8)「事」について、漢文大系、金谷治氏、新釈のいずれも「政治」あるいは「国事」と解している。 |