堯問篇第三十二(3)

By | 2016年3月1日
繒丘(そうきゅう)(注1)の封人(ほうじん。国境の警備人)が、孫叔敖(そんしゅくごう)(注2)に謁見して言った、
繒丘の封人「私はこのように聞いています、『高い官職に長らく座り続ける者は、士にねたまれる。俸禄が厚い者は、人民にうらまれる。地位高く昇った者は、君主にうらまれる』と。今、相国(しょうこく。宰相のこと)は、これら三つのことを全て備えております。なのに、あなたは楚の士と人民から罪されていない。そのわけは、どこにあるのでしょうか?」
孫叔敖「私は、楚国において三度宰相の職に就いたが、就くたびにますます心をへり下らせた。私は、国家から俸禄を加増されるたびに、ますます多くの施しを周囲に与えた。私は、自分の地位が高く昇るたびに、ますます礼を恭しくした。このことが理由で、楚の士と人民から罪されていないのだ。」


子貢が、孔子に質問した、
子貢「賜(それがし)(注3)は人の下に就いておりながらも、いまだに人の下に就く道が分かりません。」
孔子「人の下に就く道とは、たとえるならば土のようになることだ。これを深く掘れば、甘(うま)い泉を得る。これに植えたならば、五穀が生えて草木が繁茂し、鳥や獣が育つようになる。万物は生ずればここの上に立ち、滅すればここの中に入っていく。その功績は多大でありながら、自らはこれを徳としない。人の下に就く者は、たとえるならば土のようになることであるよ。」


むかし、虞(ぐ)国は宮之奇(きゅうしき)を用いなかったために、晋国によって併合された(注4)。萊(らい)国は子馬(しば)を用いなかったために、斉国によって併合された。殷の紂(ちゅう)は王子比干(おうじひかん)の胸を割いて殺したために、周の武王によってその国を取られた。これらは賢者に親しみ知者を用いることをしなかったので、身を滅ぼして国も亡んでしまったのだ。


(注1)集解の郝懿行は、漢書地理志に繒県は東海郡に属す、と注する。繒(または鄫)は、山東省東岸にあった旧国の名。ただし韓詩外伝ほかに見える問答では「孤丘」に作られていて、繒丘が山東省の地名を指しているのどうか判然としない。
(注2)孫叔敖は、春秋時代、楚の荘王の令尹(宰相)。非相篇(1)臣道篇(1)にも見える。
(注3)賜(し)は、子貢の名。自称するときには名を用いる。
(注4)本章の故事について解説する。虞国は春秋時代にあった国で、晋の献公は虢(かく)国を討つという名目で、その通り道にある虞国を通過させることを乞うて、虞公に宝物を渡した。宮之奇はこれに反対したが、虞公は聞き入れずに晋軍を通過させた。晋の献公は、虢国を滅ぼしたその帰途に虞国もまた滅ぼしてしまった。虞国の大夫であった百里奚は、捕らえられて秦国に引き渡された。百里奚は秦の穆公(ぼくこう。繆公とも書かれる)に見出されて仕え、賢者として名声を得た。『孟子』萬章章句上、九を参照。萊国は、今の山東省にあった国。春秋時代、斉国に滅ぼされた。楊注は、「子馬はその姓名未詳」と言う。王子比干とは比干(ひかん)のことで、殷最後の王である紂のおじ。比干は紂の暴虐を諫めたが、紂によって胸を割かれて殺された。のちに周の武王は紂を牧野に討って殺し、殷は滅亡した。
《読み下し》
(注5)語に曰く、繒丘(そうきゅう)の封人(ほうじん)、楚の相孫叔敖(そんしゅくごう)に見(まみ)えて曰く、吾之を聞く、官に處ること久しき者は士之を妬(ねた)み、祿厚き者は民之を怨み、位尊き者は君之を恨む、と。今相國(しょうこく)は此の三者有りて、而(しか)も罪を楚の士民に得ざるは何ぞや、と。孫叔敖曰く、吾三たび楚に相として、心瘉(いよいよ)卑(ひく)く、祿を益す毎に、施瘉(いよいよ)博く、位滋(いよいよ)尊くして、禮瘉(いよいよ)恭し。是を以て罪を楚の士民に得ざるなり、と。

(注6)子貢孔子に問うて曰く、賜(し)は人の下と爲るも、而(しか)も未だ知らざるなり、と(注7)。孔子の曰(のたま)わく、人の下と爲る者は、其れ猶お土のごときなり。深く之を抇(ほ)れば(注8)甘泉を焉(ここ)に得、之に樹うれば五穀焉に蕃(はん)し、草木焉に殖し、禽獸焉に育す。生ずれば則ち焉に立ち、死すれば則ち焉に入る。其の功多くして、而(しか)も息(とく)(注9)とせず。人の下と爲る者は、其れ猶お土のごときなり、と。

昔虞(ぐ)は宮之奇(きゅうしき)を用いずして、晉之を并(あわ)せ、萊(らい)は子馬(しば)を用いずして、齊之を并せ、紂は王子比干を刳(さ)きて、武王之を得。賢を親しみ知を用いず、故に身死して國亡ぶなり。


(注5)本章と趣旨を同じくする問答が、韓詩外伝巻七に見える。韓詩外伝では、「狐丘丈人」が孫叔敖に問いかけている。狐丘丈人と孫叔敖との同様の問答は、淮南子道応訓・列子説符篇にも見える。
(注6)本章の問答は、孔子家語困誓篇、説苑臣術篇にも大同小異の文が見える。韓詩外伝巻七にも同じ趣旨の孔子と子貢の問答があるが、文は多少異なる。
(注7)家語では、「未知爲人下之道(未だ人の下と爲るの道を知らず)」に作る。韓詩外伝では、「請問爲人下之道奈何(請い問う、人の下と爲るの道はいかん)」に作る。増注は両書を引いて、この堯問篇の文には脱文があるのではないか、と言う。上の訳では、家語ほかの他書の言葉に引き寄せて訳する。
(注8)楊注は、「抇は掘」と言う。
(注9)集解の劉台拱は、家語・説苑・春秋繁露山川頌では「而不言(しかもいわず)」に作ることを指摘する。同じ集解の王引之は、この堯問篇の「息」字は「悳」字であるべきで、「悳」は「徳」の古字であると言う。王説に従う。

堯問篇の上の三章もまた、君主・君子の道を説くものである。


次章の荀子賛はすでに訳してあるので、本サイトの『荀子』全訳は、これで一応完結です。
このサイトが少しでも古典文学・古代思想に興味を持った皆さんの手助けになったならば、とてもうれしく思います。

河南殷人 記
二〇一六年三月

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です