堯問篇第三十二(1)

By | 2016年2月27日
堯(ぎょう。伝説の聖王)が舜(しゅん。伝説の聖王で、堯の後を継いで即位した)に質問した。
堯「私は天下全てを招き統べることを望む。どうすればよいだろうか?」
舜「心を一つに集中して、これを失わないことです。かすかな言行まで抜かりなく行い、怠らないことです。倦むことなく、忠信をこころがけつづけることです。このようにすれば、天下はおのずから陛下の下にやって参ります。天地のごとく揺るぎなく心を一つに集中し、日月のごとく人が知らない細微な点も抜かりなく運行し、内に忠誠を盛んにして外にこれを輝かせて、天下にこれを明らかに示すのです。

(解釈その一)(注1)
そもそも天下は、一隅に固まっているようなものではありません。天下全てにあまねく己を示すことだけができるのであって、手元に招き統べるようなことは不可能です。」
(解釈その二)
そうすれば天下はまるで一隅に固まってあるようなものであり、わざわざ招き統べる努力など要らぬことでありましょう。」


魏の武侯(ぶこう)(注2)が、政治を立案して見事に的中して、居並ぶ群臣たちは主君の明察に及ぶことができなかった。武侯は朝廷から退いて、喜びの色を顔に示していた。呉起(ごき)(注3)が進み出て、言った。
呉起「わが君、これまで左右の者で、楚の荘王(そうおう)(注4)の言葉をお耳に入れた者がございましたか?」
武侯「楚の荘王の言葉?それは、なんであるか?」
呉起「かつて楚の荘王が、政治を立案して見事に的中して、居並ぶ群臣たちは主君の明察に及ぶことができませんでした。荘王は朝廷から退いて、憂いの色を顔に示していました。申公巫臣(しんこうふしん)(注5)が進み出て、王に問いました、『王よ、朝廷から退いて憂色あるのは、どういたしましたか?』と。荘王は答えました、『不穀(それがし)(注6)は政治を立案して見事に的中し、居並ぶ群臣たちはわが明察に及ぶことができなかった。それが、我が憂いなのだ。かつて仲虺(ちゅうき)(注7)はこう言ったものだ、”諸侯が自ら師を得る者は王者となり、諸侯が自ら友を得る者は覇者となり、諸侯が自ら相談する家臣を得る者は国を保ち、諸侯が自ら政治を立案して自分に及ぶ配下を得られない者は滅亡する”と。今、不穀(それがし)の不肖をもってして、わが考えに居並ぶ群臣が及ばない。これでは、わが国は滅亡するのではないだろうか。これが、我が憂いの理由なのだ』と。楚の荘王は憂いて、わが君は喜んでおられますぞ。」
武侯はここに至って一歩退いて拝礼し、呉起に言った、「ああ、天は先生を寡人(それがし)(注8)に遣わして、過ちから救ってくださった!」と。


(注1)相対立する二通りの解釈が提出されていて、原文の真意を決め難い。よって、二説の訳を併記する。注11参照。
(注2)魏の武侯は、戦国時代初期の君主。先代の文侯と並んで、魏国の最盛期を築いた。魏国は春秋時代の晋国を解体して成立した三晋(魏・韓・趙)の一で、その君主が王を称するのは次代の恵王からである。だが恵王の代になると斉秦楚に攻撃されて、魏国は一転して振るわなくなった。孟子が会見したのは、斉秦楚に敗れた時期の恵王である。恵王の頃には大梁(たいりょう)に都を置いたので、魏国は梁国とも呼ばれるようになった。
(注3)呉起は衛の人で、まず魯国で将軍として功績を挙げたが魯公に疑われて解任され、魏国に移って文侯・武侯の二代に仕えて将軍として名声を得た。しかしやがて武侯にも疑われてしまい、ここを去って楚王に宰相として招かれた。楚国では王の庇護のもとに王族を官職から排して兵を強くする法家思想的な政治改革を行い、楚国の国力は大いに上がった。しかし庇護する楚王が死んだとき、呉起を恨む王族たちによって惨殺されることとなった。呉起の兵法を著したという『呉子』は、『孫子』と並ぶ兵法書として名高い。だが、『呉子』が呉起じしんの著作であるかどうかは不明である。
(注4)楚の荘王は、荀子によって春秋五覇の一に挙げられる。蛮族の王であったが中原諸国を圧する権勢を示し、また明君としての逸話も多く伝えられている。
(注5)楊注は、「巫臣は楚の申邑の大夫なり」と注する。つまり巫臣という名の楚国の大夫で、申という邑を封地としていたのであろう。
(注6)「穀」には「よい」という意味がある。「不穀」は下の「寡人」と同じく、君主が謙遜した自称。
(注7)仲虺は、殷の開祖湯王を補佐した賢相。『書経』商書には仲虺之誥篇があったと記録されているが、現在に残る仲虺之誥篇は偽古文尚書の一篇であって、後世に作られた偽書であることが考証済みである。
(注8)上の「不穀」と同じく、君主が謙遜した自称。
《読み下し》
堯舜に問うて曰く、我天下を致(いた)さん(注9)と欲す、之を爲すこと奈何(いかん)、と。對(こた)えて曰く、一を執りて失うこと無く、微を行いて怠ること無く、忠信にして倦(う)むこと無ければ、天下自(おのずか)ら來る。一を執るは天地の如く、微を行うは日月の如く、忠誠內に盛んにして外に賁(かがや)き(注10)、四海に形(あら)わる。(以下、解釈困難:)天下其在一隅邪、夫有何足致也(注11)、と。

魏の武侯、事を謀りて當り、羣臣(ぐんしん)能く逮(およ)ぶもの莫し。朝より退きて喜色有り。吳起(ごき)進みて曰く、亦嘗て楚の莊王の語を以て、左右に聞する者有りや、と。武侯曰く、楚の莊王の語とは何如(いかん)、と。吳起對えて曰く、楚の莊王、事を謀りて當り、羣臣逮ぶもの莫し。朝より退きて憂色有り。申公巫臣(しんこうふしん)進みて問うて曰く、王朝(ちょう)して憂色有るは、何ぞや、と。莊王曰く、不穀(ふこく)事を謀りて當り、羣臣能く逮ぶもの莫し、是を以て憂うるなり。其れ中蘬(ちゅうき)(注12)の言に在り、曰く、諸侯自(みずか)ら[爲](注13)師を得る者は王たり、友を得る者は霸たり、疑(ぎ)(注14)を得る者は存し、自ら謀を爲して己に若(し)くこと莫き者は亡ぶ、と。今不穀の不肖を以てして、而(しか)も羣臣吾に逮ぶもの莫し。吾が國亡ぶに幾(ちか)からんか。是を以て憂うなり、と。楚の莊王は以て憂い、君は以て憙(よろこ)ぶ、と。武侯逡巡・再拜して曰く、天夫子(ふうし)をして寡人(かじん)の過を振(すく)わしむる(注15)なり、と。


(注9)増注は、「致は来致なり」と言う。天下全てを自分の下に糾合する意。
(注10)楊注は、「賁は飾」と注する。集解の郝懿行は、「大なり」と注する。楊注の意で取るならば「ヒ」と読まれ、郝説の意で取るならば「フン」と読まれる。漢文大系は郝説を取り、新釈は楊注を取って「かがやく」と読み下す。楊注・新釈に従っておく。
(注11)「天下其在一隅邪、夫有何足致也」の句は、その真意を取り難い。金谷治氏は楊注に沿ってこう訳す、「天下の人心は一隅にまとまっているというものではありません。そもそもどうしてとり集めることなどできましょうか」と。いっぽう新釈の藤井専英氏は簡釈鍾泰の説に沿ってこう訳す、「天下はいかに広しと雖も、天下の民心は恰(あたか)も一箇所に纏(まと)まって存在しているかのようなもので、何もわざわざ統べ集める努力をする必要はない」と。すなわち金谷氏は第一句を反語(~であろうか?いや、そんなはずがない)として読み、「天下は其れ一隅に在らんや。夫れ有(また)何ぞ致(まね)くに足らんや」と読み下している。いっぽう藤井氏は第一句を推測の句(きっと~ではないだろうか?)として読み、「天下は其れ一隅に在(お)るか、夫れ有(また)何ぞ致すに足らんや」のように読み下している。だが、どちらを取っても、意味が釈然としない。上の訳は、両説並列させておく。
(注12)楊注は、「中蘬は仲虺と同じにて、湯の左相なり」と言う。つまり、殷の開祖湯王の左相を務めた仲虺(ちゅうき)を指す。
(注13)楊注は、この「爲」は衍字と言う。これに従う。
(注14)楊注は、「疑は博聞達識にして疑惑を決するべき者を謂う」と言う。猪飼補注は荻生徂徠を引いて、「補佐を謂う」と言う。君主の相談役のこと。
(注15)集解の王念孫は、「振」は「救」なり、と言う。すくう。

堯問篇は、末尾の文を除いては歴史上の人物たちの問答や言行を集めた形式となっている。新釈の藤井専英氏は、「実質的には、それを借りて荀子(或は荀子一派)が自己の見解を表明したものというべきであろう」と述べている。だが本篇末尾の文は、荀子の弟子あるいはその末流の者が書いたものである。それは、荀子を孔子に匹敵する人物であると称える荀子賛である。詳しくは、堯問篇末章に譲る。

呉起は、孫子と並んで孫・呉と称される戦国時代初期の兵法家・政治家である。かつて孔子の弟子の曾子(曾参)の下に学んだが、呉起が母の死を聞いても故郷に帰国しなかったので曾子は破門した、と史記に見える。儒家の範疇に入らない呉起であるが、ここでは君主の心得を説く賢者として描かれている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です