哀公篇第三十一(5)

By | 2016年2月25日
定公が、顔淵(がんえん)(注1)に質問した。
定公「東野畢(とうやひつ)(注2)の御者術は、優れているといえるだろうか?」
顔淵「優れていると言われれば、優れていると言えるでしょう。しかしながら、いまその操る馬が逃げ去ろうとしています。」
定公は顔淵の言葉を喜ばず、奥に入って左右の者に言った、「君子というものは、人の悪口を言うものであろうか?」と。
ところが三日後、校(こう。馬の飼育係)が定公に謁見して、「東野畢(とうやひつ)の馬が、逃げ去ってしまいました。両驂(りょうさん。四頭立て馬車の外側の両馬)が綱を引きちぎって逃げ出して、両服(りょうふく。四頭立て馬車の内側の両馬)だけが厩舎に戻りました」と告げた。定公は席から飛び上がって立ち上がり、「ただちに車を出して、顔淵を召し出せい!」と命じた。かくて顔淵が、再度現れた。定公は言った、
定公「先日、寡人(それがし)(注3)があなたに質問したとき、あなたは『東野畢の御者術は、優れていると言われれば優れていると言えるでしょう。しかしながら、いまその操る馬が逃げ去ろうとしています』と言われましたなあ。分からないのだが、あなたはどうやってそれを知ったのであるか?」
顔淵「臣は、これを政治の鉄則から類推したのです。むかし舜(しゅん。伝説の聖王)は、人民を使うことが巧みでありました。また造父(ぞうほ)(注4)は、馬を使うことが巧みでありました。舜は、その人民を窮迫させることをしませんでした。また造父は、その馬を窮迫させることをしませんでした。そのために舜の治世下には逃亡する人民はおらず、また造父が用いた馬は逃走しませんでした。いっぽう、いま東野畢の御者術を観るならば、なるほど立派なものであり、車に搭乗して轡(たづな)を取って姿勢は正しく、並足も駈足もよく調練されています。しかしながら、馬といえども難所を駆けて遠くまで走った後には、馬の力も尽きるものです。なのに東野畢は、それでもなお馬を強いて走らせようとしています。臣は、これによって彼の馬が逃げ出すであろうことを知ったのです。」
定公「なるほど。もう少し、その点について詳しく聞かせていただきたい。」
顔淵「臣は、こう聞いております、『鳥は窮すればくちばしでつっつき、獣は窮すれば爪でつかみかかり、人は窮すれば詐りの言を吐く』と。いにしえの時代から現代に及ぶまで、いまだかつて下に仕える者を窮迫させながら、なおかつ危険に陥らずに済んだ者はありませんでした。」


(注1)姓は顔、名は回、字は子淵。姓と名を取って顔回と呼ばれるか、あるいは字の略称を取って顔淵と呼ばれる。後世、曾子と並んで孔子門下の最重要の弟子として称揚された。
(注2)姓は東野、名は畢。
(注3)君主の自称。哀公篇(3)を参照。
(注4)造父は、周の穆王(ぼくおう)の御者。名御者の代表として『荀子』でしばしば言及されている。性悪篇(6)注5参照。
《読み下し》
(注5)定公顏淵に問うて曰く、東野子は之れ善馭なるか、と。顏淵對(こた)えて曰く、善は則ち善なり、然りと雖も、其の馬將(まさ)に失(いつ)せん(注6)とす、と。定公悅(よろこ)ばず、入りて左右に謂いて曰く、君子固(もと)より人を讒するか、と。三日にして校(こう)來り謁して曰く、東野畢(とうやひつ)の馬失し、兩驂(りょうさん)は列(れつ)(注7)し、兩服は廄(うまや)に入る、と。定公席を越えて起ちて曰く、趨(すみやか)に駕して顏淵を召せ、と。顏淵至る。定公曰く、前日寡人(かじん)吾子に問う、吾子曰く、東野畢の駛、善は則ち善なり、然りと雖も、其の馬將に失せんとす、と。識らず、吾子何を以て之を知るや、と。顏淵對えて曰く、臣は政を以て之を知る。昔舜は民を使うに巧にして、造父(ぞうほ)は馬を使うに巧なり。舜は其の民を窮せしめずして、造父は其の馬を窮せしめず、是(ここ)を(孔子家語ほかに従って補う:)以て(注8)舜に失民(いつみん)(注9)無く、造父に失馬(いつば)(注9)無し。今東野畢の馭は、車に上り轡(たづな)を取りて、銜體(ぎょたい)正しく(注10)、步驟(ほしゅう)・馳騁(ちてい)して、朝禮(ちょうれい)(注11)畢(つく)せるも、險を歷(へ)、遠を致(きわ)むれば、馬力盡(つ)き、然も猶お馬を求めて已(や)まず。是を以て之を知るなり、と。定公曰く、善し。少しく進むを得可きか、と。顏淵對えて曰く、臣之を聞く、鳥は窮すれば則ち啄(たく)し、獸は窮すれば則ち攫(かく)し、人は窮すれば則ち詐る、と。古自(よ)り今に及ぶまで、未だ其の下を窮せしめて而(しこう)して能く危きこと無き者有らざるなり、と。


(注5)本章は、孔子家語顔回篇・新序雑事篇五・韓詩外伝二に大同小異の文が見える。
(注6)楊注は、「失」は読んで「逸」となす、と言う。家語・韓詩外伝は「佚」字に作る。
(注7)楊注は、「列」は「裂」と同じ、と言う。(馬が)綱を引きちぎってしまう様。
(注8)増注の久保愛、および集解の盧文弨・王念孫はここに注して、新序・家語・韓詩外伝・太平御覧に「以」字が置かれることを指摘する。いずれも、他書に従ってここに「以」字があるべきことを言う。
(注9)注6と同じ。家語・韓詩外伝は「佚」字に作る。
(注10)原文「取轡銜體正」。「轡」はたづなの意で、「銜」はくつわの意。漢文大系および金谷治氏は、新序に従い「銜」を「御」の誤りとみなす。新釈の藤井専英氏は、本説で「銜體(体)」を輿馬全体の状態の意、と注する。新釈は別に或説で梁啓雄『簡釈』が「取轡銜、體正」と区切って読んでいることを示す。簡釈に従うならば、「轡銜(ひかん)を取りて、体正しく」と読み下すであろう。「轡」字に引きずられて「御」字を「銜」字に誤った可能性は十分に考えられるので、漢文大系および金谷氏に従っておく。
(注11)集解の郝懿行は、「朝」は「調」と古字通ず、と言う。調禮(礼)は、馬の調練の意。

哀公篇の末尾には、魯の定公と孔子の高弟顔淵(顔回)との問答が置かれている。魯の定公は哀公の先代で、定公の在位中に孔子は昇進して大司寇の位に就き、同じく定公の時代のうちに失脚して魯を去り諸国流浪の旅に出た。魯国は、孔子とその門下にある顔淵のような人材を有効に活用することができなかった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です