儒效篇第八(1)

By | 2015年7月24日
大儒の功績について。武王が崩御したとき、子の成王(せいおう)は幼少であった。それで周公は成王をあえて退けて武王の統治を継承し、天下を自らに服属させた。それは、天下が周から離反することを恐れたからであった。天子の地位を継承し、天下の政治を聴き、天下を保有していることを当然であるかのように振舞ったが、しかし天下は周公のことを貪欲だとはみなさなかった。実兄の管叔(かんしゅく)を殺し旧殷国の都を廃墟としたが(注1)、しかし天下は周公のことを残虐だとはみなさなかった。天下全てを掌握して七十一の封建国を創立し、そのうち姫姓(きせい。周王室の姓)だけが五十三ヵ国を占めたが、しかし天下はこれをえこひいきだとはみなさなかった。周公は成王を教え導き、正道を教育して、文王・武王の後をよく継ぐべき君主に育て上げ、ここに至って周公は周王朝の大権を返上して天子の位を成王に返したのであった。しかしながら天下が周王朝に従うことは変わることなかった。周公は、他の家臣たちとともに北面(ほくめん)(注2)して成王に参朝したのであった。天子の重責は、年少ではとても勤まらない。しかし仮の摂政の位では、天子の役目を行うことはできない。能力ある者には天下が従い、能力なき者からは天下が去る。そこで周公は成王をあえて退けて武王の政治を継承し、天下を自らに服属させた。それは、天下が周から離反することを恐れたからであった。だが成王が加冠して成人したときに周公が天子の位を返上したのは、主君を滅ぼさないという義を明らかにするための行為であった。周公は、当初天下を保有していなかった。そこから天下を保有したのであるが、その後また天下を保有しなくなった。これは、天下を禅譲したからではない。また成王は当初天下を保有しておらず、その後で天下を保有するようになったのであるが、これは天下を簒奪したからではない。最有能者に天子の位が交替したまでのことであり、官職の序列の変更が起こったにすぎないのだ。ゆえに、たとえ分家が本家になり代わって天子となったとしても、越権というべきではない。弟が兄を誅殺したとしても、暴虐というべきではない。君臣の位がひっくり返ったとしても、不順な反逆というべきではない。周公がやったことは、これすべて天下の平和の目的のために、まず文王・武王の事業を完成させることが必要だったからであり、それから進んで分家が本家に仕えるのが本来であるという義に立ち返ったのであった。武王から周公に、周公から成王にと天子の位は変化したが、天下はそれでも平静に統一を保つことができた。聖人でなければ、この事業はできることではない。これが、大儒の功績なのである。


(注1)管叔鮮(かんしゅくせん)は、周の武王の弟で周公の兄。管叔鮮と周公の弟の蔡叔度(さいしゅくど)は、武王が滅ぼした殷国の遺民を監督する任にあった。武王の死後、後を継いだ成王の摂政に周公が就いて国政を総覧した。このとき管叔鮮と蔡叔度は殷の紂王の遺子である武庚(ぶこう)を戴いて、周公に対して反乱を起こした。だが周公はこれを平らげて、武庚と管叔鮮は誅殺されて蔡叔度は追放され、旧殷国の都は廃されて殷の遺民は移された。なお蔡叔度の子孫は赦されて、蔡国に封じられた。
(注2)天子は南面、すなわち南を向いて立つ。家臣は朝廷で天子に相対して仕えるために、家臣となることを「北面する」と言うのである。
《原文・読み下し》
大儒の效。武王崩じて、成王幼なり、周公成王を屏(しりぞ)けて(注3)武王に及(つ)ぎ、以て天下を屬するは、天下の周に倍(そむ)くを惡めばなり。天子の籍を履(ふ)み、天下の斷を聽き、偃然(えんぜん)として之を固有するが如し、而(しこう)して天下焉(これ)貪(たん)と稱せず。管叔(かんしゅく)を殺し、殷國を虛にして、而して天下焉を戾(れい)と稱せず。天下を兼制して七十一國を立て、姬姓(きせい)獨り五十三人に居り、而して天下焉を偏と稱せず。成王を敎誨・開導して、道を諭(さと)らしめ、能く迹(あと)を文・武に揜(つ)がしめ、周公周を歸して、籍を成王に反(かえ)し、天下周に事(つか)うることを輟(や)めず、然り而して周公北面して之に朝す。天子なる者は、少を以て當る可からず、假攝(かせつ)を以て爲す可らず、能なれば則ち天下之に歸し、不能なれば則ち天下之を去る。是を以て周公成王を屏(しりぞ)けて(注3)武王に及ぎ、以て天下を屬するは、天下の周に離るるを惡めばなり。成王冠して成人し、周公周を歸し、籍を反すは、主を滅せざるの義を明(あきら)かにするなり。周公は天下無し。鄉(さき)に天下有りて、今天下無きは、擅(ゆず)るに非ざるなり。成王鄉(さき)に天下無くして、今天下有るは、奪えるに非ざるなり、變埶(へんせい)・次序の節(せつ)(注4)然ればなり。故に枝を以て主に代りて越に非ざるなり。弟を以て兄を誅して暴に非ざるなり。君臣位を易(か)えて不順に非ざるなり。天下の和に因り、文・武の業を遂げ、枝・主の義を明かにす、抑(そもそも)亦變化せるも、天下厭然(えんぜん)として猶お一のごときなり。聖人に非ざれば之を能く爲すこと莫し。夫れ是を之れ大儒の效と謂う。


(注3)「屏」字の解釈について、二説が対立する。楊注は、「屏は蔽」と言う。新釈の藤井専英氏はこれを取り、「おおう」と訓ずる。猪飼補注は「屏は退なり。言うは成王当(まさ)に立つべくして、而(しか)るに周公之を退け、身武王を継ぎ天下の位を践(ふ)む」と言う。漢文大系および金谷治氏はこれを取り、「しりぞく」と訓ずる。ここで荀子は周公が後継ぎであるべき成王を押しのけて実権を握った事実を正当化しようとするのであって、猪飼補注が言うようにあえて誤ったことを述べていると考えたい。
(注4)楊注は「節は期なり」と言う。集解の王先謙は「節然はなお適然のごときなり」と言う。王先謙に従う漢文大系の注は、「時勢の変通上正に起り来りたるもの」と言う。どちらを取っても文意は大きく変わらないと思われるが、楊注に従っておく。新釈も「節」をふし目、と注していて楊注に沿っているようである。

儒效篇(じゅこうへん)の構成を区分するならば、以下のようになるであろうか。
(1)緒言(大儒の功績、周公は国家を統治するためにあえて天下を保有したこと)
(2)秦の昭王(昭襄王)との問答
(3)邪説への批判
(4)学ぶことによって聖人・君子となり富貴と栄誉を得られること
(5)学ぶ段階による聖人・君子・士の区別。学ぶ内容は詩・書・礼・楽であり、これがいにしえの百王の法であること
(6)周公の異説への反論
(7)俗人・俗儒・雅儒・大儒の区別、孔子・子弓(しきゅう)への賞賛
(8)師法に学ぶことの必要性
(9)結語(大儒の優位性、則るべき法は後王であること=後王思想)

(1)は、下に述べるように正論篇の湯武放伐論・堯舜禅譲論につながっている。(2)は彊国篇の応候(范雎)との問答とつながり、(3)は非十二子篇の批判とつながり、(4)は勧学篇の再説であり、また性悪篇の「偽(い)」だけが聖人・君子への道を開くという主張にもつながる。(5)の三段階論は解蔽篇ほかの議論につながり、学ぶべきことが詩・書・礼・楽であることはまた勧学篇の再説である。その礼楽の内容は、礼論篇・楽論篇で詳説される。(6)は正論篇の「世俗の説」への反論の一バリエーションであり、(7)は非十二子篇の儒家サークル内への荀子の批判につながる。(8)はやはり勧学篇、および脩身篇の主張の再説であり、(9)では非相篇ほかに表れる後王思想によって篇の全体が結語される。

このように、儒效篇は『荀子』各篇で展開される叙述のダイジェスト版というべき内容となっている。これに仲尼篇の前半に置かれた王覇論を合わせたならば、長大な『荀子』思想の大方が短く圧縮されていると言うことができるであろうか。儒效篇(および仲尼篇の前半部)は、荀子が自らが主張してきた思想体系を短くまとめることを試みた篇であるかもしれない。以下、上の(1)~(9)の区分に従って読んでいきたい。

緒言は、大儒である周公の政治を正当化するところから始まる。周公は、武王の死後に後を継いだ成王が幼少であったので、その摂政となって成王が成人するまでの間、国政をもっぱらにしていた。荀子は、周公が武王の後に政治を執ったのは天下の統治者が幼少であることはできないからであった、と言う。上の荀子の主張の背景には、君主とは最高の智徳を持った聖人だけが就任するべきであり、そうでなければ天下が従わない、という考えがある。正論篇の湯武放伐論・堯舜禅譲論において検討したとおりである。荀子は、君主の地位を国家の最高指導者という役職として純粋に考え、そこに就くには天下を統治するにふさわしい能力がなければならないと考える。荀子は、孟子のように天命論を用いて世襲王朝の正当性を述べた妥協的な議論を展開することはない。

荀子は「君主は最高の智徳を持った聖人でなければならない」という視点をもって、ここで周公が天下を一度保有して再度返上した経過を説明するのである。しかしながら、もし成王が君主の役職に耐えない凡庸な人間に成人したならば、どうするべきだと言うのであろうか?その仮定について、荀子は述べていない。だがおそらく荀子ならば、そのときには周公は決して天子の位をこれに返上せず、別に天下が従う聖人を待ったであろう、と述べたのではないか、と思われる。君主の地位を最高の能力者として見る荀子は、そういう結論に至らずにはいられないはずだ。最高の能力者である君主の下に、礼義を学んで身につけた君子が行政を行う。これが、荀子が理想とする法治官僚国家のすがただからである。

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