礼論篇第十九(2)

By | 2015年10月25日
礼には三つの根本がある。天と地は、万物が発生する根本である。先祖は、人間という種が発生する根本である。君師(くんし。人間を率いる師である君主のこと)は、人間社会が統治される根本である。天地がなければ万物は発生することができず、先祖がなければ人間は発生することができず、君師がいなければ人間社会は統治されることができない。この三者の一つでもなくなったら、人間は安泰でいられはしない。ゆえに礼では上には天に仕え、下には地に仕え、先祖を尊び、君師を貴ぶのである。これが、礼の三つの根本である。よって王者は太祖(王家の祖先)を天に並べて祀り、諸侯はその祖先の宗廟を壊すことをせず、大夫・士(上級と下級の家臣)は永世変わらず大宗(たいそう)(注1)に仕えるのである。これは始原を尊ぶことを特別に区別するのであり、始原を尊ぶことは徳の根本である。郊(こう。天を祭る儀式)は天子だけが行い、社(しゃ。地を祭る儀式)は天子のみならず諸侯から士・大夫まで行う(注2)。これは身分尊い者が尊い存在に仕え、身分低い者が低い存在に仕えることを区別するのであり、大きな者は大きくあり、小さな者は小さくあるべきなのである。ゆえに天下を保有する天子は七世前の祖先までを宗廟に祀って仕え、一国を保有する諸侯は五世前まで、五乗の地(注3)を保有する大夫は三世前まで、三乗の地を保つ士は二世前までを宗廟で祀って仕え、自分の手を働かせて食を得なければならない一般人民は祭廟を立てることはできない。これは国家への功績の厚さを区別するのであり、身分高い者は功績が厚いゆえにその恩沢は大きく広がるが、身分低い者は功績が薄いゆえにその恩沢は狭いのである。大饗(たいきょう)(注4)においては、玄尊(げんそん。尊は酒を入れる祭器。その尊に水を入れたもの)を上にのぼせて、生魚を俎(そ。つくえ)にのぼせて、大羹(たいこう。塩と梅で味付けしない肉スープ)をまずすすめる。これは、飲食の始原の姿をかたどったものである。饗(きょう)(注5)においては、玄尊を上にのぼせて、酒醴(しゅれい。あまざけ)を用い、黍(きび)と稷(もちきび)をまずすすめ、稲と梁(おおあわ)を供える。祭(さい)(注6)には、大羹を上にのぼせて、庶羞(しょしゅう。神に捧げる品物)を十分に揃える。これらは、飲食の根本を貴びながらも、実用に近づけたものである。根本を貴ぶことを文と言い、実用に近づけることを理と言う。文・理の両者が合わさって祖先の祭祀は文飾を作り、全体として一体(注7)となる。これを大隆(たいりゅう)と言う。ゆえに、尊に玄酒(げんしゅ。水)を入れた玄尊をのぼせることと、俎の上の生魚をのぼせることと、豆(とう。食器の一)に大羹を盛ってまずすすめることとは、飲食の始原の姿をかたどるという同一の意味をもっているのである。利(り。祭祀で飲食を輔佐する役の人)の献ずる爵(しゃく。さかずき)の中の酒を飲み干さないことと(注8)、成事(せいじ)(注9)においては俎の上の魚を食べないことと、三侑(さんゆう)(注10)がすすめる三飯の後は食しないこととは、祭礼の終わりを示すという同一の意味を持っているのである。天子の昏礼(こんれい。婚礼)において両者がまだ対席しない段階(注11)と、宗廟にまだ尸(かたしろ)を入れない段階と、死者が息を引き取ってからまだ小斂(しょうれん)(注12)をしない段階は、祭礼の始まりを示すという同一の意味を持っているのである。大路(たいろ。天子の車)に素幦幬(そべきちゅう。絹糸で織った白布)をかぶせることと、郊の祭で麻の冠を着けることと、喪服には麻の帯の先を散らして垂らすことは、素朴さを示すという同一の意味を持っているのである。三年の喪(注13)においては往って反らないように消え入る声で哭泣することと、宗廟の歌においては一人が歌って三人が追いかけて和することと、祭祀の音楽では鐘一つを懸け、拊膈(ふかく。なめし革に糠を入れた単純な楽器)を上にのぼせ、瑟(おおごと)には朱色の練糸で絃(げん)を張り越(かつ。瑟の裏に空ける穴)をうがって鈍い音色を出すことは、華美に走らない素朴な祭祀を行うという同一の意味を持っているのである。およそ礼とはまずひきしまった簡素さから始まり、やがて文飾を成し、最後に喜ばしく終わるのである。ゆえに最上の礼とは感情と文飾がともに完全に備わっていることであり、次に感情と文飾のどちらかが勝っていることであり、その下は感情に一本化されて文飾が消え去ってしまうことであるが、しかしそれこそが原初の姿であるともいえるだろう。天地はこの礼によって合し、太陽と月はこの礼によって輝き、四季はこの礼によって順序を整え、星々はこの礼によって巡り、長江と黄河はこの礼によって流れ、万物はこの礼によって繁盛し、人間の好悪は礼によって節度を持ち、人間の喜怒もまた礼によって適切となるのでである(注14)。礼に従えば、人の下に立てば従順となり、人の上に立てば明察となる。万物は変化するが乱れることがないのは、礼の秩序に従っているからである。だがひとたび礼から外れたならば、一切は亡んでしまうだろう。礼とは、なんと至上のものではないか。聖王は盛んなる礼義を立ててこれを最高の規準となし、天下はこれを減らすことも増やすこともできなかった。根本の感情と展開された文飾とが相従い、簡素な最初とよろこばしい最後とが相応じ、文飾の極地が身分の区別を作り、明察の極地の作品であるがゆえに礼の意義がその中でよく理解されるように作られているのである。天下で聖王の礼に従う者は治まるが、これに従わない者は乱れるだろう。聖王の礼に従う者は安泰であるが、これに従わない者は危険となるだろう。聖王の礼に従う者はその身を存続するが、これに従わない者は滅亡するであろう。このことは、思慮浅い小人には測りかねることなのだ。礼の道理とは、まことに深い。堅白同異(けんぱくどうい)(注15)の詭弁を唱える論者どもがここに入り込んでも、溺れ死ぬことであろう。礼の道理は、まことに大きい。勝手に法典や規則を作り出して偏った説を唱える論者ども(注16)がここに入り込んでも、滅亡することであろう。礼の道理は、まことに高い。粗暴傲慢、勝手気まま、風俗軽薄をもって高しとなす論者ども(注17)がここに入り込んでも、墜落して死ぬことであろう。ゆえに縄墨(すみなわ)が正しく並べられていたならば、直線と曲線を欺くことはできない。衡(はかり)が正しく掛けられていたならば、軽重を欺くことはできない。規(コンパス)と矩(ものさし)が正しくあてがわれていたならば、四角形と円形を欺くことはできない。そして君子が礼を詳しくすれば、いつわりの行為と正しい行為(注18)を欺くことはできない。よって縄とは直線の極地であり、衡とは均衡の極地であり、規矩とは四角形と円形の極地であり、礼とは人道の極地である。なのに礼に法らず礼を十分身に着けない者は、これを無方の民(注19)と言うべきである。いっぽう礼に法り礼を十分身に着ける者は、これを有方の士と言うべきである。万事が礼に当たっていてよく思索するならば、これをよく慮る者と言うべきであり、万事が礼に当たっていて決して変えることがないならば、これをよく堅固なる者と言うべきである。よく慮ってよく堅固であり、加えて礼を好む者は、聖人と言うべきである。ゆえに天は高さの極地であり、地は低さの極地であり、四つの方角は果ての無さの極地であり、聖人は正道の極地なのである。よって学ぶ者はもとより聖人となることを学ぶのだ。ただに無方の民となることを学ぶのではない。

礼とは、財物を用いて行うものであり、文飾によって貴賤を区別するのであり、分量の多い少ないによって格差を設けるのであり、厚く増したり薄く削ったりすることが運用の要点である。文飾がたくさんあって実用面が簡素であるのは、礼の厚く増した姿である。実用面がたくさんあって文飾が貧弱であるのは、礼の薄く削った姿である。文飾と実用との両者が内外表裏となって並び行われるのは、礼の中庸な姿である。ゆえに君子は上の厚い礼も下の薄い礼も尽くしながらその中間にとどまり、ゆっくり歩くときから全速力で駆けるときまでも、礼から外れないのである。これが、君子の守るべき境界(注20)である。人がこの境界を守れば士・君子(注21)であり、ここから外れたならば一般人民である。この境界の中をあまねく行き届き、その秩序を完全に会得している者は、聖人である。ゆえに、聖人の厚い徳はその礼の蓄積なのであり、聖人の偉大な徳はその礼の広大な広がりなのであり、聖人の高遠な徳はそれが礼を尊重することのあらわれなのであり、聖人の明察な知はそれが礼を極めたからなのである。『詩経』に、この言葉がある。:

礼儀、卒(ことごと)くに度あり
笑うも語るも、卒く礼儀のとおり
(小雅、楚茨より)

これが聖人であり、士・君子の目指すところなのである。


(注1)諸侯の公子で臣籍に下って大夫となる者を別子(べっし)というが、その別子の長子を宗と呼び、別子の末裔の一族は宗を大宗として仕える。
(注2)増注に従い、このように解釈した。下の注24参照。
(注3)楊注によると、古制では一成すなわち十里(約4km)四方につき革車一乗を出した。五乗の地とは、大夫の采地である。
(注4)楊注は、「大饗は先王を給祭す」と言う。祖先を合わせて祀る祭で、三年に一回行うという。
(注5)楊注は、「饗は享と同じ、四時廟を享くるなり」と言う。四季ごとの廟祭。
(注6)楊注は、「祭は月祭なり」と言う。毎月の祭。
(注7)原文「大一」。楊注は「大は読んで太となし、太一は太古の時を謂う」と注する。始原の根本が祭祀において表されている、というような意であろう。新釈は荻生徂徠『読荀子』を挙げて、合体された一、総括された一、の意で思弁的意義は含まない、と注する。新釈に寄せて訳す。
(注8)『儀礼』によると、利はまず尸(し。死者の霊を受ける役。かたしろ)に爵をすすめ、次に祝(しゅく。神に祈る役。かんぬし)に爵をすすめ、祝はこれを飲み干さずなめただけで戻す、と言う。
(注9)集解の王先謙は史記索隠を引いて、成事は卒哭(そつこく)の祭、と言う。卒哭とは喪礼の一で、人が死ぬと時間を決めずに哭(な)く一定の期間のこと。卒哭では、爵を受けるが俎の魚には手を付けない礼があるという。
(注10)三侑(三宥)とは、尸に飯をすすめる三人の手伝者。三人が尸に代わる代わる飯をすすめて、尸は三飯して飽きたことを告げ、それ以上は食さない礼と言う。
(注11)原文読み下し「未だ齊を發せざる」。増注に従えば、婚礼においてはまず二人の席および黍と稷と爵を設け、二人が相対した(これを齊と言う)後にこれらを並べると言う。
(注12)小斂とは、死んだ翌日に衣服で死体をくるむ儀式と言う。
(注13)親および君主に対する喪。礼論篇の後半で詳説される。
(注14)天論篇で見られるように、荀子は人間の行為と天地の自然現象は無相関であると考える。よって人間が礼を正しく行えば天地の自然が正しく運行する、といった効果を想定しているわけではない。そのように考えるのは、漢代以降の儒者である。ここの表現は、天地自然に秩序があることと同じく人間世界も礼の秩序によって統御されることが正しい、という意味として取るべきであろう。
(注15)名家、公孫龍の説。劉向校讎叙録の注9を参照。増注は、惠施(けいし)・鄧析(とうせき)の説と言う。非十二子篇(1)参照。
(注16)増注は、慎到(しんとう)・田駢(でんべん)の説と言う。非十二子篇(1)参照。
(注17)増注は、它囂(たごう)・魏牟(ぎぼう)の説と言う。非十二子篇(1)参照。
(注18)原文「詐偽」。新釈の藤井専英氏も言うように、ここでは「詐」と「偽」が対義語として用いられているはずだから、詐偽(さい)と読んで詐はいつわりの行為、偽は正しい行為とみなすしかないだろう。現代語の「詐偽」の意味とは違う意味で解釈しなければならない。「偽」の肯定的意味については、正名篇(1)の語の定義、および性悪篇を参照。
(注19)無方の民・有方の士について、集解の郝懿行は、「方はなお隅のごときなり。廉隅は稜角あり、士は砥厲を知る、故に徳隅有り。民は廉恥無し、故にその隅を喪うなり」と言う。礼によって徳を磨いているかそうでないか、ぐらいの意であろうか。楊注は「方はなお道のごときなり」と言う。これならば正道に従っているかそうでないか、の意となるだろう。
(注20)原文「壇宇・宮廷」。儒效篇(9)注11および15参照。
(注21)上の礼制の説明における士・大夫と、ここでの士・君子は意味が異なっている。礼制の説明においては具体的な身分秩序として士・大夫は上級・下級の宮廷人を指す言葉であったが、ここでの士・君子は聖人と対比される語であり、君主たる聖人の下に就く官僚を指す。聖人の対比概念としての士・君子については、脩身篇(4)注2ほかを参照。
《原文・読み下し》
禮に三本有り(注22)。天地なる者は生の本なり、先祖なる者は類の本なり、君師なる者は治の本なり。天地無くんば惡(いずく)んぞ生ぜん、先祖無くんば惡んぞ出でん、君師無くんば惡んぞ治まらん。三者偏亡すれば、安人無し。故に禮は、上は天に事(つか)え、下は地に事え、先祖を尊びて、君師を隆(とうと)ぶ。是れ禮の三本なり。故に王者は太祖を天とし、諸侯は敢て壞(こぼ)たず、大夫・士は常宗有り。始を貴ぶを別つ所以にして、始を貴ぶは得(とく)(注23)の本なり。郊(こう)は天子に止(とどま)り、社は諸侯に止(いた)り、道(つう)じて士・大夫に及ぶ(注24)。尊者は尊に事(つか)え、卑者は卑に事うるを別つ所以にして、宜(よろ)しく大なる者は巨なるべく、宜しく小なる者は小なるべし(注25)。故に天下を有する者は十世(しちせい)(注26)に事え、一國を有する者は五世に事え、五乘の地を有する者は三世に事え、三乘の地を有する者は二世に事え、手を持(たの)みて食する者は宗廟を立つることを得ず。積厚(せきこう)を別つ所以にして、積厚(あつ)き者は流澤廣く、積薄き者は流澤狹し(注27)。大饗(たいきょう)には玄尊(げんそん)を尚(かみ)にし、生魚を俎(そ)にし、大羹(たいこう)を先にするは、食飲の本を貴ぶなり。饗(きょう)には玄尊を尚にして酒醴(しゅれい)を用い、黍稷(ししょく)を先にして稻粱(とうりょう)を飯し、祭(さい)には大羹を齊(のぼ)して(注28)庶羞(しょしゅう)に飽かすは、本を貴びて用を親するなり。本を貴ぶを之れ文と謂い、用を親するを之れ理と謂い、兩者合して文を成し、以て大一(たいいつ)に歸す。夫れ是を之れ大隆(たいりゅう)と謂う。故に尊(そん)の玄酒(げんしゅ)を尚(かみ)にするや、俎の生魚を尚にするや、豆(とう)の大羹を先にするや、一なり。利爵(りしゃく)の醮(しょう)せざるや、成事の俎の嘗(しょう)せざるや、三臭(さんゆう)(注29)の食せざるや、一なり。大昏(たいこん)の未だ齊を發せざるや、太廟の未だ尸(し)を入れざるや、始卒(ししゅつ)の未だ小斂(しょうれん)せざるや、一なり。大路(たいろ)の素未集(そべきちゅう)(注30)や、郊の麻絻(まべん)するや、喪服(そうふく)の散麻(さんま)を先にするや、一なり。三年の喪、之を哭(こく)して文(かえ)らざるや(注31)、清廟(せいびょう)の歌に、一倡(いっしょう)して三歎するや、一鐘(いっしょう)を縣け、拊[之]膈(ふかく)(注32)を尚(かみ)にし、朱絃(しゅげん)にして通越(つうかつ)するや、一なり。凡そ禮は梲(せい)(注33)に始り、文に成り、悅校(えつこう)(注34)に終る。故に至備は情・文俱(とも)に盡し、其の次(つぎ)は情・文代(こもごも)勝ち、其の下は情に復して以て大一に歸するなり。天地は以て合し、日月は以て明(あきら)かに、四時は以て序し、星辰は以て行(めぐ)り、江河も以て流れ、萬物も以て昌(さかん)に、好惡(こうお)も以て節し、喜怒も以て當る。以て下と爲れば則ち順に、以て上と爲れば則ち明に(注35)、萬物變じて亂れず、之に貳(たが)えば則ち喪ぶなり(注36)。禮豈(あ)に至(し)ならざらんか。隆を立てて以て極と爲し、天下之を能く損益するもの莫きなり。本末相順(したが)い、終始相應(おう)じ、至文(しぶん)以(にして)(注37)別有り、至察(しさつ)以(にして)說有り、天下之に從う者は治り、從わざる者は亂れ、之に從う者は安く、從わざる者は危く、之に從う者は存し、從わざる者は亡ぶ。小人は測ること能わざるなり。禮の理は誠に深し、堅白同異(けんぱくどうい)の察、焉(ここ)に入るも而(しか)も溺(おぼ)る。其の理は誠に大なり、擅作(せんさく)・典制・辟陋(へきろう)の說、焉(ここ)に入るも而も喪ぶ。其の理は誠に高し、暴慢・恣睢(しき)・輕俗、以て高しと爲すの屬、焉(ここ)に入るも而も隊(お)つ(注38)。故に繩墨(じょうぼく)誠に陳(ちん)すれば、則ち欺くに曲直を以てす可からず。衡(こう)誠に縣(けん)すれば、則ち欺くに以て輕重を以てす可からず、規矩(きく)誠に設(もう)くれば、則ち欺くに方圓(ほうえん)を以てす可からず、君子は禮に審(つまびら)かなれば、則ち欺くに詐僞(さい)を以てす可からず。故に繩なる者は直の至(いたり)、衡なる者は平の至、規矩なる者は方圓の至、禮なる者は人道の極(きわみ)なり。然り而(しこう)して禮に法(のっと)らず、禮に足らざる、之を無方の民と謂う。禮に法り、禮に足る、之を有方の士と謂う。禮に之れ中(あた)りて能く思索する、之を能く慮ると謂い、禮に之れ中りて能く易(か)うること勿(な)き、之を能く固しと謂う。能く慮り能く固く、加うるに好む者は、斯れ聖人なり。故に天者(は)高の極なり。地者(は)下の極なり。無窮者(は)廣の極なり。聖人者(は)道の極なり。故に學なる者は、固(もと)より聖人と爲ることを學ぶなり。特(ただ)に無方の民を爲ることを學ぶに非ざるなり。
禮なる者は、財物を以て用と爲し、貴賤を以て文と爲し、多少を以て異と爲し、隆殺(りゅうさい)を以て要と爲す。文理繁く、情用省くは、是れ禮の隆なり。文理省き、情用繁きは、是れ禮の殺(さい)なり。文理・情用、內外・表裏を相爲し、並び行われて襍(まじ)わるは、是れ禮の中流なり。故に君子は上其の隆を致(きわ)め、下其の殺(さい)を盡(つく)し、而(しこう)して中其の中に處る。步驟(ほしゅう)・馳騁(ちてい)・厲鶩(れいぶ)も、是に外れず。是れ君子の壇宇(だんう)・宮廷なり。人是を有(たも)てば士・君子なり、是に外るるは民なり。是の其の中に於て、方皇(ほうこう)・周挾(しゅうしょう)し、曲(つぶさ)に其の次序を得るは、是れ聖人なり。故に厚なる者は禮の積なり、大なる者は禮の廣なり、高なる者は禮の隆なり、明なる者は禮の盡なり(注39)。詩に曰く、禮儀卒(ことごと)く度あり、笑語(しょうご)卒く獲(う)、とは、此を之れ謂うなり。


(注22)「禮に三本有り」の言は、史記にない。
(注23)楊注は、「得」はまさに「徳」となすべし、と言う。
(注24)原文「郊止乎天子、而社止於諸侯、道及士大夫」。真ん中の「止」字と最後の「道」字をいかに解釈するかで、注釈者の意見が分かれている。史記は「止」字を「至」字に作り、「道」字を「函」字に作る。新釈の藤井専英氏は、真ん中の「止」字を変えずに劉師培の「道は禫(たん)の古文」説を取る。すなわち「郊(こう)は天子に止り、社は諸侯に止り、は士・大夫に及ぶ」と読む。禫は、父母が死去して三年の喪(実質は二十五ヶ月)が明けて一ヶ月隔てた二十七ヶ月目に行う祭のこと。よって新釈はこの箇所を「地を祭る社祭は天子と諸侯のみが行ない、先祖を祭る禫祭は天子諸侯より士大夫にまで及ぶ」と訳している。いっぽう増注の久保愛は楊注の「道は通なり」を正しいと言い、根拠に礼記の「大夫以下、羣(ぐん)を成して社を立つ、置社と曰う」を引く。集解の郝懿行の説明によれば、「羣(群)」は衆であって、大夫以下庶人に至るまでは一家単独で社を立てず集団で一社を共立するならわしであった。よって、天子から士・大夫、さらには庶人に至るまで社を立てること自体は通じて行うので、「道」を「通」と読む解釈が成り立つ。この解釈を取る場合、真ん中の「止」字は変えなければ意味が通じない。増注本は史記にならって「至」字を採用している。藤井説でも読むことは可能であるが、通説の読み方である増注説を取っておく。
(注25)新釈の藤井専英氏は、「尊者は尊に事え、、」以下を上に示したように読み下している。漢文大系および金谷治氏は、「尊者は尊に事え、卑者は卑に事え、宜しく大なる者は巨なるべく、宜しく小なる者は小なるべきを別つ所以なり」のように読み下している。藤井氏は前の「始を貴ぶを別つ所以にして、、」に形式を合わせ、さらに後の「積厚を別つ所以にして、、」(下の注27参照)に形式を合わせるべきとしている。藤井説に従って読み下す。
(注26)増注・集解の王先謙ともに、大戴礼記・史記に合わせて「十」を「七」に作るべし、と言う。
(注27)原文「所以別積厚、積厚者流澤廣、積薄者流澤狹也」。集解の盧文弨・王念孫は、大戴礼記・史記が「積厚」を二回重ねないことを引いて、一方を削るべし、と言う。しかし新釈の藤井専英氏は上の注25の理由によりこれを削らずに読んでいる。藤井説に従い、「積厚」を削らない。
(注28)大戴礼記・史記は「齊」を「嚌」に作る。楊注はこれに従う。嚌とは、供え物の飲料を歯まで入れてなめるだけにとどめる儀礼。集解の兪樾はこれに対し、「齊」は「躋」となすべし、と言う。漢文大系・新釈ともに兪樾説を取る。躋はのぼるの意で、前にある「尚」字と同じ。
(注29)大戴礼記は「臭」を「侑」に作る。増注は、「臭は、今史記宥に作る。是なり。宥は侑に同じ」と注している。久保愛の参照した史記では「宥」に作られていたようである。現行本は「侑」字となっている。
(注30)集解の兪樾は、「未」はまさに「末」となすべし、と言う。すなわち礼論篇(1)注8の絲幦と同じであり、素幦(そべき)は絹糸で織った白布。「集」字について、猪飼補注は衍字と言い、集解の兪樾は読んで「幬(ちゅう)」となすべし、と言う。幬は帳(ちょう、とばり)の意。「集」字を衍字とみなさない兪樾説を取りたい。よって「素幦幬(そべきちゅう)」は、絹糸で織った白い覆い布の意。
(注31)集解の盧文弨は、大戴礼記・史記ともに「文」を「反」に作ることを引いて、字の誤と言う。これに従う。
(注32)集解の郝懿行は、楽論篇にある「拊鞷」がこれに当たると言う。王先謙は、大戴礼記・史記により「之」字は衍と言う。拊膈(ふかく)とは、韋(なめしがわ)で作り中に糠を入れた簡単な楽器という。
(注33)「梲」を史記は「脱」字に作る。集解の郝懿行は、「梲」はまさに「税」に作るべし、と言う。税(せい)は収斂の意で、ひきしめること。いっぽう増注はまさに「脱」に作るべし、と言う。粗略の意。郝懿行に従う。
(注34)集解の郝懿行は、「校」はまさに「恔」に作るべし、と言う。悅恔は、よろこびの意。
(注35)史記は、この文のここから後の「萬物變じて、、」が省略されて、つづく「禮豈に至ならざらんか」の文が「太史公曰く、至なるかな(太史公曰、至矣哉)」と変えられて、以下は司馬遷の礼についての賛辞として書かれている。だがこの賛辞の言葉は、この礼論篇にあるとおり司馬遷の言葉ではない。もしかしたら史記の礼書を実際に書いた史官が荀子学派の者で、荀子の礼論篇がその者の筆であった可能性もないわけではない。かの膨大な史記を、全て司馬遷一人が書いたわけはない。司馬遷は、スタッフとして配下に多数の史官を抱えていたはずである。
(注36)大戴礼記の礼三本篇と重なる文は、ここまでである。
(注37)集解の王念孫は、「以」はなお「而」のごときなり、と言う。後ろも同じ。
(注38)楊注は、「隊」は古の「墜」字なり、と言う。
(注39)史記はここまでで終わり、この後の詩経からの引用はない。

上の箇所はほぼ同文が『史記』礼書にあり、またその前半部分は『大戴礼記』の礼三本篇に重なっている。祖先の祭祀についての概略と、その意義が書かれている。天下を統一した秦始皇帝は、焚書坑儒を行ったことで後世に悪名が高い。しかし始皇帝の側近として仕えた博士には儒家の叔孫通(しゅくそんとう)がいたのであって、始皇帝は必ずしも全ての儒家を遠ざけたわけではなかった。統一された帝国の宮廷には礼制が必要であり、宮廷儀式に詳しい儒家の知識は、始皇帝といえどもそれなりに必要であったはずである。始皇帝が弾圧したのは儒家が礼とともに主張する統治者倫理の箇所であり、そこをもって始皇帝を批判する儒家を始皇帝は許すことはなかった。漢帝国は秦帝国の法律である秦律を大枠で受け継いで漢律を制定したが、礼制についてもそうであった。「(秦の滅亡後に漢の高祖に仕えた)叔孫通が増やしたり削ったりしたところがずいぶんあるが、それでも大方は秦の礼制を継承した」(『史記』礼書より)。儒家の礼制は秦漢帝国の宮廷儀式として採用され、後世に多少の変遷はあれど継承されていったはずである。

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