君道篇第十二(4)

By | 2015年10月7日
君主は、国が強いことを望んで弱いことを嫌い、我が身が安泰であることを望んで危険となることを嫌い、栄光を望んで恥辱を嫌う。これは、聖王の禹(う)でも悪王の桀(けつ)でも同じことである。この三つの願望を求めて三つの嫌悪を避けるためには、はたしてどのような道を取るのが簡便であろうか?それは、身を慎んでよい宰相を選び取ることよりも最短の道はない。その宰相は、智があっても不仁ではいけない。仁があっても不智ではいけない。仁があってなおかつ智である人材が、君主の宝であり、王者・覇者の輔佐にふさわしい(注1)。このような宰相を得ることを急がないのは、不智である。このような宰相を得たのに登用しないのは、不仁である。宰相たるべき人材が登用されていないのに大きな功績を挙げることを願うのは、愚の骨頂である。いまの時代の君主にある多いなるわざわいを挙げるならば、一つは賢者に政治を行わせながら、片方で愚者といっしょにその政治をあれこれと修正をかけることである。二つは智者に政治を考えさせながら、片方で愚者とその政治を議論することである。三つは徳を修めた高潔の士に政治を行わせながら、片方で汚れた姦悪の輩といっしょにその政治を疑うことである。こんなことで、政治に成果を求めても無理なことである。これをたとえれば、真っ直ぐな木を立てておきながらその影が曲がらないかと恐れるようなものであり、惑いの骨頂である。古語には、「美人は醜人のわざわい、公正の士は愚衆のじゃま者」とある。正道に従う人は、汚れた姦悪の輩の賊なのである。汚れた姦悪の輩にその賊のことを議論させて、その議論が偏らないことを求めても無理なことである。これをたとえれば、曲がった木を立てておきながらその影が真っ直ぐであることを期待するようなものであり、錯乱の骨頂である。ゆえに、いにしえの人が人材を登用する道は違っていた。人材を取るには正道を取り、人材を登用するには法に従った。人材を取る正道とは、礼義に照らし合わせて人材の良し悪しをはかることである。人材を登用する法とは、身分に応じて権限を定めることである。登用した人材の行動と動作は礼義に従ってその良し悪しを考え、その人材の取捨選択した思慮は政策の成果によって評価し、その人材の日々の努力は挙げた功績によって比較する。このゆえに身分低い者は身分高い者の上に立って君臨することはできず、権限の軽い者は重い者の政治を評価することはできず、愚かな者は智者の政治について推測することができず、こうして何度政策を行っても過ちがなかったのである。ゆえに、人材を比較するときには礼義によってこれを行い、その者がよく恭敬に安んじているかどうかを観察し、その者とともに行動してみて異変によく対応できるかどうかを観察し、その者とともに遊んでみて放埓に流れないかどうかを観察し、その者が音楽・女色・権勢・利益といった誘惑の種に遭遇し、また腹の立つことや困難なことに遭遇したときに、節度をよく守って離れないかどうかを観察するのである。そうすれば、真の分別を身につけた人材とそうでない人材とは、白と黒のように区別できて曲げることはできないだろう。ゆえに伯楽(はくらく)(注2)が馬の良し悪しで欺かれることはできないように、君子ならば人の良し悪しで欺かれることはできない。これが、明主の道である。

君主が遠くにある小さな的を射抜く射術の名手を求めたいのであれば、高い爵位や大きな褒賞を示してこれを招くのであって、身内の子弟をえこひいきして選んではならず、縁遠い人材を見逃してはならず、とにかくよく的に当てる名手を採用するであろう。これ以外に、名手を得る方法などはあるはずがなく、聖人といえどもこれを変えることはできはしない。速い者にも追いつき遠くまで走る、一日千里を駆ける御車術の名手を求めたいのであれば、高い爵位や大きな褒賞を示してこれを招くのであって、身内の子弟をえこひいきして選んではならず、縁遠い人材を見逃してはならず、とにかくよく馬車を走らせる名手を採用するであろう。これ以外に、名手を得る方法などはあるはずがなく、聖人といえどもこれを変えることはできはしない。では国を治めて人民を駆り立て、上下を調和斉一させたいと望み、そのために内に向けては国人に誠実たることを求めて外に向けては外敵を防ぐことに努めることしか行わないならば、なるほど平安の時期ならば人を統制できて外国人に統制されることもなかろう。だがひとたび戦乱の時期となれば、これだけではあっという間に危難に陥って恥辱を受け、滅亡することであろう。だから君主は卿(けい。大臣)や宰相の輔佐を求めなければならないのであるが、その輔佐する卿や宰相を選ぶときにはさきほどのような国を治める公正さがなくて、己に親しんで群れる気に入りの者たちばかりを用いるならば、それは過ちの最たるものである。だから社稷を保つ君主というものは、誰もが強いことを望んでにわかに弱くなり、誰もが安泰となることを望んでにわかに危険に陥り、誰もが国と我が身を存続させることを望んでにわかに滅亡するのである。なのでいにしえの時代には万単位も国があったのに、今や十数国しかないのは、他でもない、輔佐する人材を選ぶところに失策があったからなのである。ゆえに明主は人に個人的な好意で金石珠玉を贈ることはあるが、人に個人的な都合で官職事業を渡すことはしないのである。それはどうしてであろうか?それは、官職事業を個人的な都合で渡すことは、渡す当人に利益がないことだからである。その者が無能であるのに君主がこれを用いるならば、それは君主が闇主であるということである。家臣が無能でありながら有能であると偽るのは、それは家臣が己の実力に嘘を付くということである。上では君主が闇主で、下では家臣が実力に嘘を付いていれば、国の滅亡は待ったなしであり、君主と家臣が共々に害を受ける道である。あの周の文王(ぶんおう)は、高位の一族に欠けていたわけではなかったし、身内の子や弟がいなかったわけではなかったし、また気に入りの家臣がいなかったわけでもなかった。しかし彼は発起して太公(たいこう)(注3)を人民から抜擢してこれを登用したのであった。これは、文王が太公を個人的な好意で用いたのでは決してない。親類であっただろうか?いや、周王室は姫(き)姓であり、太公は姜(きょう)姓である(注4)。旧知の間柄であっただろうか?いや、両名はそれまで互いに面識がなかった。眉目美麗であったからだろうか?いや、そのとき太公はすでに七十二歳であり、歯が抜け落ちた老人であった。それなのに文王が太公を用いたのは、文王が貴い正道を立てて貴い名声を明らかにして天下に恵みを垂れようと望んだとき、自分独りではそれができなかった。そのときに太公でなければこのことを行うには不足であったので、これを抜擢して用いたのであった。こうして果たして貴い正道は立ち、貴い名声は明らかとなり、天下をすべて制し、立国封建した七十一国のうち姫姓が五十三人を数え、周王室の子孫ならば狂気惑乱の者でない限りすべて天下の大諸侯に封じられることとなった。この成功を得たのは、人を愛する仁心があったゆえである。ゆえに天下の大道を掲げて天下の大功を立て、それが成った後に己に近しい者たちや愛する者たちを厚く庇護し、それ以下の一族の者もまた天下の大諸侯となることができたのであった。古語には「ただ明主のみがその愛するところをよく愛することができて、闇主はその愛するところまで必ず危うくする」とあるが、それは以上のことを指しているのである。


(注1)荀子の言葉と、孟子が弟子の楽正子を為政者の器として推奨した言葉を比較しよう(告子章句下、十三)。孟子は善を愛する心さえあれば為政者としては十分だと言い、その知力を重視しない。対する荀子は仁と智の両者がなければ宰相には選べない、と言う。この微妙な相違点が、両者の政治観の重要な分かれ目に繋がっているのではないだろうか。孟子はたとえば宰相のような高級官僚もまた具体的な仕事を行う必要はなくて人徳で人を動かすのが役割であって、具体的な仕事は属する配下が行うべきと考えているようである。他方荀子は働かなくてよいのは君主だけであって、宰相以下の高級官僚は行政の頂点として最高の仕事を行わなければならないと考えているようである。孟子は官僚制が未発達な親分・子分関係が支配する名望家政治を想定していたようであり、他方荀子は戦国時代末期の発達した官僚制を想定していたはずである。
(注2)伯楽とは、天帝の馬をつかさどる星の名。また春秋時代の人物である孫陽(そんよう)のことを指す。馬を見分けていることに優れていたので、伯楽と呼ばれた。
(注3)太公望(たいこうぼう)、すなわち呂尚(りょしょう)のこと。老年まで困窮していたが、周の文王がその才を見込んで抜擢し、文王・武王の二代に仕えて周が殷を倒すことに大功があったと伝えられる。その子孫は斉国に封じられて、春秋時代に桓公を輩出して春秋時代の最初の覇者となった。戦国時代になると斉国の君主の位は田(でん)氏に簒奪されて、呂尚の後裔は絶えた。
(注4)古代周王朝の王室は姫(き)姓である。呂尚は姓が呂、名が尚、字(あざな)が子牙(しが)であるが、その本姓は姜(きょう)姓であり、史記斉太公世家によれば祖先が呂(りょ)の地に封じられたので呂姓を名乗るようになったという。よって本姓と字(あざな)を組み合わせて、姜子牙(きょうしが)とも称される。
《原文・読み下し》
人主爲(た)る者は、强を欲して弱を惡(にく)み、安を欲して危を惡み、榮を欲して辱を惡まざる莫し、是れ禹・桀の同じき所なり。此の三欲を要(もと)め、此の三惡を辟(さ)くるは、果して何の道にして便なる。曰く、愼んで相(しょう)を取るに在り、道是(これ)より徑(けい)なるは莫し。故に智にして不仁なるは、不可なり。仁にして不智なるは、不可なり。既に智にして且つ仁なるは、是れ人主の寶(たから)なり、王霸の佐なり。得ることを急にせざるは、不知なり、得て用いざるは、不仁なり、其の人無くして有其の功有るを幸(ねが)うは、愚焉(これ)より大なるは莫し。今人主に六患(たいかん)(注5)有り、賢者をして之を爲さしめて、則(しか)るに(注6)不肖者と之を規し、知者をして之を慮らしめて、則(しか)るに愚者と之を論じ、脩士をして之を行わしめて、則(しか)るに汙邪(おじゃ)の人と之を疑う、成立(注7)を欲すと雖も、得んや。之を譬うるに、是れ猶お直木を立てて、其の景(かげ)の枉(まが)らんことを恐るるがごときなり、惑(まどい)焉より大なるは莫し。語に曰く、好女の色は、惡者の孽(げつ)なり(注8)、公正の士は、衆人の痤(ざ)なり(注9)、と。道に循う人は、汙邪の賊なり。今汙邪の人をして、其の怨賊を論ぜしめて、其の偏無からんことを求むるも、得んや。之を譬うるに、是れ猶お枉木を立てて其の景の直を求むるがごときなり、亂焉より大なるは莫し。故(ゆえ)に古の人之を爲すは然らず、其の人を取るや道有り、其の人を用うるや法有り。人を取るの道は、之を參(さん)するに禮を以てし、人を用うるの法は、之を禁ずるに等を以てし、行義・動靜は、之を度(はか)るに禮を以てし、知慮・取舍は、之を稽(かんが)うるに成を以てし、日月・積久は、之を校するに功を以てす。故に卑は以て尊に臨むことを得ず、輕は以て重を懸(はか)ることを得ず、愚は以て智を謀ることを得ず、是を以て萬舉して過たざるなり。故に之を校するに禮を以てして、其の能く敬に安んずるを觀、之と舉措(きょそ)・遷移して、其の能く應變(おうへん)するを觀、之と安燕(あんえん)して、其の能く流慆(りゅうとう)すること無きを觀、之に接するに聲色(せいしょく)・權利、忿怒(ふんど)・患險を以てして、其の能く守を離るること無きを觀るなり。彼の誠に之有る者と、誠に之無き者とは、白黑の若く然り、詘(くつ)す可けんや。故に伯樂(はくらく)は欺くに馬を以てす可からず、君子は欺くに人を以てす可からず、此れ明王の道なり。
人主、善射の遠を射て微に中(あ)つる者を得んと欲すれば(注10)、貴爵・重賞を懸けて、以て之を招致し、內以て子弟に阿(おもね)る可らず、外以て遠人を隱す可からず、能く是に中つる者は之を取る、是れ豈に必ずしも之を得るの道ならざらんや、聖人と雖も易(か)うること能わざるなり。善馭の速に及び遠を致す者、一日にして千里なるを得んと欲すれば(注11)、貴爵・重賞を懸けて、以て之を招致し、內以て子弟に阿る可らず、外以て遠人を隱す可からず、能く是を致(いた)す者は之を取る、是れ豈に必ずしも之を得るの道ならざらんや、聖人と雖も易うる能わざるなり。國を治め民を馭し、上下を調壹(ちょういつ)せんと欲し、將(すなわ)ち(注12)內は以て城を固くし、外は以て難を拒(ふせ)ぐのみならば、治には則ち人を制し、人制すること能わざらんも、亂には則ち危辱・滅亡すること、立ちどころにして待つ可きなり(注13)。然り而(しこう)して卿相・輔佐を求むるは、則ち獨り是の若く其れ公ならざるなり、案(すなわ)ち唯(ただ)己に便嬖(べんべい)・親比する者をのみ之れ用う、豈に過つこと甚だしからずや。故に社稷を有する者は、强を欲せざること莫きも、俄(にわか)にして則ち弱く、安を欲せざること莫きも、俄にして則ち危く、存を欲せざる莫きも、俄にして則ち亡ぶ。古(いにしえ)は萬國有りて、今は數十(じゅうすう)(注14)有り、是れ它(た)の故無し、之を是に失せざること莫きなり。故に明主は人に私するに金石・珠玉を以てすること有り、人に私するに官職・事業を以てすること無し、是れ何ぞや。曰く、本(もと)より私せらるる所に利ならざればなり。彼不能にして之を使えば、則ち是れ主闇(くら)きなり、臣不能にして能を誣(し)うるは、則ち是れ臣詐(いつわ)るなり。主上(かみ)に闇く、臣下(しも)に詐(いつわ)れば、滅亡すること日無く、俱(とも)に害するの道なり。夫の文王は貴戚無きに非ざるなり、子弟無きに非ざるなり、便嬖無きに非ざるなり、倜然(てきぜん)として乃ち太公を州人より舉げて之を用う、豈に之に私せんや。以て親と爲さんか、則ち周は姬(き)姓にして、彼は姜(きょう)姓なり。以て故(こ)と爲さんか、則ち未だ嘗て相識らざるなり。以て好麗と爲さんか、則ち夫の人行年七十有二、齫然(ぐんぜん)(注15)として齒(し)墮つ(注16)。然り而して之を用うる者は、夫の文王貴道を立て、[欲](注17)貴名を白(あきら)かにして、以て天下を惠せんと欲せしに、而(しか)も以て獨なる可からず、是(か)の子に非ざれば(注18)以て之を舉ぐるに足る莫し、故に是(か)の子を舉げて(注19)之を用う。是(ここ)に於て貴道果して立ち、貴名果して明かにして、天下を兼制し、七十一國を立て、姬姓獨り五十三人に居る。周の子孫、苟(いやし)くも狂惑ならざる者は、天下の顯諸侯(けんしょこう)爲らざること莫し、是の如き者は、能く人を愛すればなり。故に天下の大道を舉げ、天下の大功を立て、然る後に其の憐する所、愛する所を隱(いん)す、其の下猶お以て天下の顯諸侯と爲るに足る。故(こ)に曰く、唯(ただ)明主のみ能く其の愛する所を愛することを爲し、闇主は則ち必ず其の愛する所を危うくす、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)集解の兪樾は、「六」は「大」の誤りと言う。
(注6)増注は、「則」はなお「而」のごとし、と言う。以下三つの「則」は、逆説の接続詞として読み下す。
(注7)宋本は「成立」を「成功」に作る。
(注8)増注は、「好」は美、「惡」は醜、「孽」は妖孽なり、と言う。美人は醜人のわざわいである、という意。
(注9)「痤」は、腫れ物のこと。増注は、「痤は妨害なり」と言う。公正の士は一般大衆の邪魔者である、ということ。
(注10)原文「人主、欲得善射射遠中微者」。宋本は「射」一字が欠落して「人主、欲得善射遠中微者(人主、善射の遠きより微に中つる者を得んと欲すれば)」に作る。
(注11)原文「欲得善馭速致遠者、一日而千里」。宋本には「及」字がない。集解本は「及」字を削り、増注本は残す。集解の王念孫は、前後の文が対句となるべきであること、あるいは王覇篇の表現などを引いて、「及」を残すべき説を立てる。兪樾は後文は「一日而千里」が付け加わっていて対句が破れていて、この五字の意味が「及」字の代わりであることを指摘して、「及」字を削るべき説を立てている。この読み下しでは、底本の漢文大系が増注本に従って読み下していることに倣って「及」字を残すことにしたい。なお新釈の藤井専英氏は「一日而千里」の五字が傍注の竄入である可能性を示唆している。もしこれを除くならば前後の文が対句として完全なものとなるので、有力な読み方であると考える。
(注12)「將」を漢文大系は「はた」と読んでいる。金谷治氏および藤井専英氏は「すなわち」と読んでいる。ここは金谷・藤井説に従っておく。
(注13)以上の「國を治め民を馭し、、」以下の一文について猪飼補注は、上下が連続せずおそらく衍脱がある、と言う。上の読み下しは、欠けた意味を補うために、原文に沿わず金谷・藤井両氏の読み下しを参考として行った。
(注14)富国篇では同じ表現で「十數」に作られている。増注・集解の王念孫ともに、十数に改めるべきと言う。
(注15)増注および集解の郝懿行は、ともに韓詩外伝の引用にて「齫」が「齳(ぐん)」字であることを引く。「齳」は、歯が無い貌。
(注16)原文「而齒墮」。宋本は「兩齒墮」に作る。
(注17)増注は、この文の二つ目の「欲」は衍と言う。
(注18)原文「非于是子」。集解本を底本としている漢文大系に従う。影宋台州本を底本とする新釈はここを「非于是」としている。さきの君道篇(2)の注13で王説を取らず「于是」と取ったので、君道篇内の文体の一貫性を重んじるならば新釈のほうがよいと思われる。
(注19)原文「舉是子」。これも集解本を底本とする漢文大系に従う。新釈は「舉于是」とする。

この君道篇の要点である、君主の最大の仕事は賢明な人材を選んでこれを宰相に登用すること、それが述べられる。荀子の君道篇における論述はまず礼法のシステムを整えることが有効な統治には必要であることを説き、その前提に立った上で、君主は行政の最高責任者として賢明な宰相を登用してこれをシステムの管理者として働かせるべし、という筋立てを取っている。ゆえに、システムの説明のために長大な前置きが置かれて、ここでようやく要点が述べられている。理論を追う学究の者たちは荀子の論述をよく聞いてくれることであろうが、政治の現場にある為政者にとってはよほど好学の者でなければここに至るまでに興味を失ってしまわないだろうか。

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