なぜ『荀子』を読むか(プロフィール)

私は9年前、初めて自分のウェブサイトを作ったときに、1年間『孟子』を読んでみました(『孟子を読む』サイト)。

今回、その続編としてもうひとつの中国古典『荀子』を読んでその全訳を試みたいと思いました。

今の時代、人が書物を手にとって熟読することは、ますます少なくなっています。これは通信技術の発達により社会のコミュニケーションのありかたが根本的に変化した結果であり、時代の変動を嘆いてももはや元には戻らないでしょう。この時代、世に出される書物は、一年はおろか一つの季節すら人の記憶に留まり続けることのない、その場限りの情報提供物に成り下がっているようです。

そんな時代だからこそ、時間だけは余裕がある私が、オンラインでいつでも参照できる古典のサイトをもう一つぐらい作っても世のマイナスにはならないだろう、と思います。今どきは図書館に行くことも市民の規範ではなくなり、スマホでWikipediaを読んで分かった気になればそれで終わる。しかし古典は、Wikipediaで分かった気になるのは哀しいことです。それにつけても、日本語版Wikipediaでの和漢の古典の説明を開くと、貧弱な内容で情けない気分になることがしばしばあります。

それで、どうして『荀子』なのか。

『孟子』の対となる書物であり、また名著であるにも関わらずあまりその内容が知られていない、という点がもちろんあります。

しかしそれだけではなく、私は現代の社会を再考するために役に立つ古典を読みたい、と思いました。『荀子』は、十分にその資格があります。いずれ読んでいくように、『荀子』は社会システムを冷静な論理で追っていきます。心の中の熱い思いを断言調で語る孟子のスタイルとは、対照的です。その覇者論は、現代の国際政治学と対等に渡り合える分析を行っています。迷信を否定し、迷信に惑わされる世の人々を叱咤して啓蒙するその合理性は、これが本当に古代人なのかという印象さえ持ちます。

加えて、私が読み続けるからには、読後が快い古典を読みたい、とも思いました。
『荀子』はそうです。『孟子』と同じく、読書する快さを私に与えてくれます。
『韓非子』は、大変に頭のよい人が書いた書物であることは分かるのですが、読後感は最悪です。長く付き合いたいという心地がしません。
『荘子』は、大変に面白いのですが、私にとって後に残りません。面白いが儒家のアンチを越えない、というのが私の読後感です。
『孫子』と『老子』は、今さら私が読んでどうこう論じることもないでしょう。ネットにいくらでも全文と解説があります。
(『老子』を自由放任主義の政治経済思想として読むこともほんの少しだけ考えましたが(ほとんど知られていませんが、古代ではこの書は人生哲学というよりはむしろ古代帝国の統治論として理解されていました)、その方面の古典ではアダムスミスの『諸国民の富』を読むに如かずであり、粗略な『老子』の叙述を用いて論じるのは詳細な情報を好む私の性分では読んでつまらないと思ってやめにしました。)

そういうわけで、長く付き合う古典として『孟子』に続けて『荀子』を選んだところです。
『荀子』は、冷静な議論の中に、これを読む諸君に向けての隠れた熱いメッセージが静かに込められている書物だと私は思います。

ブログのタイトルは、日本史の偉大な人文学者である荻生徂徠先生の『読荀子』を、畏れながら模倣させていただきました。

二〇一五年三月

河南殷人

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