《現代語訳》 だが、天の運行の循環は、去れば必ず再び戻り衰えたら必ず再び蘇るものである。宋朝の徳は盛んとなり、その統治と教化は立派で明らかであった。この時代に至って、河南(かなん)の程氏両先生が登場して、孟子が伝えた教えに接し、その結果はじめてこの『大学』篇を尊信して、これを大いに称えたのであった。両先生はすでに、『大学』について文章の順序を整理し、その趣旨を明らかにする作業を行っていた。彼らの作業を通じて、いにしえの大学校が人を教えた法のこと、および聖人孔子の「経(けい)」と賢人曾子の「伝(でん)」の要旨が、世に明らかとなったのである。熹(それがし)は非才の者であるが、それでもさいわいに遠く二程子を私淑することができて、彼らの説を聞く機会に恵まれた。しかしそれがしが思うに『大学』の書は、多少もとの形を失っているようであった。そこでそれがしは、凝り固まった旧説をいったん忘れ、さまざまな各説を採集し、さらに間に自らの主張をひそかに付け加えて、『大学』の欠落を補い、後世の君子の読書を待つことにした。それがしのこの試みは、極めて僭越なものであって罪を免れるものではないことを自覚している。しかしながら、国家の民を教化して良俗を作り上げるという意図と、ならびに学ぶ者の己を治めて人を治める方法とにおいては、少しばかりは世の助けになるのではないか、と言いたい。淳熙(じゅんき)己酉(きゆう)の年、二月甲子(こうし)の日、新安(しんあん)の朱熹が序す。 《用語》 |
《読み下し》 天運の循環は、往(ゆ)いて復(かえ)らざること無し。宋の德は隆盛にして、治教は休明(きゅうめい)なり。是(ここ)に於て河南(かなん)の程氏(ていし)兩夫子(りょうふうし)出で、以て孟氏の傳(でん)に接する有りて、實(じつ)に始めて此の篇を尊信して、之を表章す。旣(すで)にして又之が爲に其の簡編(かんべん)を次(じ)し、其の歸趣(きしゅ)を發す。然る後に古(いにしえ)の大學の人を敎うるの法、聖經(せいけい)・賢傳(けんでん)の指、粲然(さんぜん)として復(また)世に明(あきら)かなり。熹(き)の不敏なるを以てすと雖(いえど)も、亦幸(さいわい)に私淑して、聞く有るに與(あずか)る。顧(おも)うに其の書たる、猶(な)お頗(やや)放失す。是(ここ)を以て其の固陋(ころう)を忘れ、采りて之を輯(あつ)め、閒(まま)亦竊(ひそ)かに己が意を附し、其の闕略(けつりゃく)を補い、以て後の君子を俟(ま)つ。極めて僭踰(せんゆ)にして罪を逃るる所無きを知る。然れども國家の民を化して俗を成すの意と、學ぶ者の己を修めて人を治むるの方(ほう)とに於ては、則ち未だ必ずしも小補(しょうほ)無きにあらずと云う。淳熙(じゅんき)己酉(きゆう)二月の甲子(こうし)、新安(しんあん)の朱熹序す。 《原文》 |
冒頭のフレーズは、中国人にとって痛切に感じる歴史観であり、しかし日本人はおそらく深いところで理解できていない。げんに朱子が生きた時代は宋王朝が敗れ、華北がジュルチン(女真)によって奪われた時代である。朱子は紀元1130年に生まれて同1200年に世を去ったのであるが、その生涯の間ずっと宋王朝は中華世界の半分を失った零落の状態であった。国の半分を奪われているのに南宋亡命政権の宮廷は内紛の連続であり、官として出仕した朱子もその諫言が入れられず、晩年には相当の冷遇を受けた。まさに衰世であり、宋王朝は朱子の死後回復することもなく、モンゴル帝国に屈したのであった。
だが、中華世界の知識人たちは、このような衰世にしばしば真価を発揮した。彼らは自らの文明の伝統を再確認して、自分が死んだずっと後の時代まで文明が継続することを信じて、後世のために繋ぐ作業を行ったものであった。中国人にとって中華世界と文明は興隆したり衰退したりを繰り返しながら、しかも永遠不滅であるという信念がある。これが彼らの強さであり、また裏返せば勢いがある時代にはどこまでも中華世界を伸ばそうとして、際限を知らず厄介である。
いっぽうわが国は、貴族政治が行き詰ったときには武家が交替し、武家政権の中でも北条が行き詰れば足利、足利が衰えた後には織田・豊臣、豊臣が没落すれば徳川と政権が代替わりして、徳川政権がこれ以上進むことができなくなったならば明治政府に入れ替わった。その明治政府もまた、戦争で敗れたらただちに戦後政府に代わることとなった。わが国はある体制が行き詰ったら次の体制に代わるのであるが、その際中華世界で起こるような長期で悲惨な戦乱が起こることは少なく、また外国の侵略によって国家そのものが長期に渡って滅亡するような事態も避けられた。なので、日本人は古い時代はやがて新しい時代に代わるものであって、しかも日本そのものは傷つかずに継続していく、という信念がある。この信念は、中華世界の人々の信念とはおのずから違うものとなった。中華世界は衰退する時代があるのであり、異民族による完全な滅亡すら経験してきた。その中で後世のために不変の文明の核心を繋いでいく、という信念をかの国の知識人たちは懐いてきたのであった。いっぽう日本人は、日本そのものが傷付けられる事態が起こらない限り、日本の中で時代の変化に柔軟に適合して新しくなることを尊ぶものであった。日本と中華世界は古来海を隔てて隣接しているのであるが、中華世界は興隆したり衰退したりを繰り返すものであり、いっぽう日本は変わりながらも決して傷つかない。両者の境域が衝突する事態が起こらない限り、日本は中華世界の文明を高く評価して尊重することができる。しかし両者の境域が衝突するとき、日本の対中世論は境域を犯す者に対して一変するのである。中国もわが国も、この両者の国のありかたの違いを理解したほうがよいであろう、と私は思う。大陸国家と島嶼国家の国家観の違いと言ってもよいかもしれない。
序に戻れば、朱子はこうして宋代の二程子によって孟子が伝えたいにしえの正道がついに復古されて、『大学』の価値が再発見されたことを称える。そうして自分は二程子の課題を継いで、この『大学』の失われた箇所を修復するために朱子じしんの推測を加えたことを表明する。その作業の結果が、『大学章句』である。朱子はいにしえの中華文明の時代を越えた正統さを信じ、また二程子が長い空白期間を経て中華の正統を、そして孔子が伝えたかった真意を、再発見したこともまた信じるのである。以降『大学章句』に沿って、『大学』の本文および朱子の見解を見ていきたい。