大学或問・伝二章 ~新民~

投稿者: | 2023年3月20日

『大学或問』伝二章

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文の訓点から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
或(あるひと)問う、盤の銘有るは、何ぞや。
曰、盤は、常に用いるの器、銘は、自ら警(いまし)むるの辭なり、古の聖賢、兢兢業業として、固(まこと)に時として戒謹恐懼せざるということ無し、然れども猶お恐るるは其の怠忽する所有りて或は之を忘れんことをなり、是を以て其の常に用いるの器に於て、各其の事に因りて銘を刻みて以て戒を致す、其の常に目に接(まじ)わり、毎(ことごと)に心に警めて、忽忘に至らざらんことをなり。
曰、然らば則ち沐浴の盤にして、其の刻む所の辭此の如くなるは、何ぞや。
曰、人の是の德有るは、猶お其の是の身有るがごとしなり、德の本明らかなるは、猶お其の身の本潔きがごとしなり、德の明にして利欲之を昏ますは、猶お身の潔うして塵垢之を汚すがごとしなり、一旦存養省察の功、眞に以て其の前日利欲の昏を去りて日に新にすること有らば、則ち亦猶お其の疏瀹澡雪(そやくそうせつ)(注1)して、以て其の前日塵垢の汚れを去ること有るがごときなり、然して旣に新なりて、而(しか)も之を新にする所以の功繼がざれば、則ち利欲の交わり、將に復た前日の昏の如くなること有らんとす、猶お旣に潔して、而も之を潔する所以の功繼がざれば、則ち塵垢の集まり、將に復た前日の汚の如くなるこ有らんとするがごとしなり、故に必ず其の已新なるに因りて日日に之を新にし、又日に之を新にして、其の存養省察の功をして、少(すこし)き間斷無からざれば、則ち明德常に明に、復た利欲の爲に昏まされず、亦人の一日沐浴して日日に沐浴し、又日として沐浴せざること無きが如し、其の疏瀹澡雪の功をして、少き間斷無からざれば、則ち身常に潔淸にして、復た𦾔染の爲に汚されざるなり、昔成湯之反して聖者に至る所は、正に惟だ此に得ること有り、故に其の德を稱する者、曰(のぶ)ること有り、聲色を邇(ちかづ)けず、貨利を殖(あつ)めず(注2)、又曰、義を以て事を制し、禮を以て心を制す(注3)、曰ること有り、諫めに從いて咈(もと)らず(注4)、過を改めて吝ならず(注5)、又曰、人に與するに備らんこと求めず、身を撿(の)るには及ばざるが若くす(注6)、此れ皆以て其の日新の實を見るに足れり、所謂(いわゆる)聖敬日に躋(のぼ)る(注7)と云う者に至りては、則ち其の言(こと)愈(いよいよ)約(つづまや)かにして意愈切なり、然れども湯の此を得る所以に本づくに、又其れ伊尹に學びて發すること有り、故に伊尹自ら湯と咸(みな)一德有りと謂う、而して政を太甲に復すの初に於て、復た終始惟れ一なれば、時(こ)れ乃ち日に新(注8)、丁寧の戒を爲す、蓋し是の時に於て、太甲方(まさ)に且つ自ら怨み自ら桐に艾(おさ)む、仁に處り義に遷りて歸る、是れ亦所謂苟(まこと)に日に新にする者なり、故に復た其の嘗て以て告於湯に告げる者を推して之を告ぐ、其の日に此に進みて、間斷する所無くして、以て其の烈祖の成德を繼ぐこと有らんことを欲すなり、其の意亦深切なり、其の後周の武王、踐祚(せんそ)の初め、師尚父が丹書の戒を受け曰く、敬怠に勝つ者は吉、怠敬に勝つ者滅、義欲に勝つ者は從、欲義に勝つ者は凶、退きて其の几席(きせき)觴豆(しょうとう)刀剣戸牖(こよう)に於て、銘せずということ莫し(注9)、蓋し湯の風を聞きて興起する者なり、今其の遺語尚幸いに頗る禮書に見(あらわ)る、治を願うの君、學を志すの士、皆以て之を考うること莫くばある可からず。
曰、此れ民を新ことを言いて、其の此を引くことは何ぞや。
曰、此れ其の本自(よ)り之を言う、蓋し是を以て自ら新にすの至りと爲して、而して民を新にするの端なり。
曰、康誥の新民を作(おこ)すと言うは、何ぞや。
曰、武王の康叔を封ずるや、商の餘民紂が汙俗に染まりて其の本心を失うを以てなり、故に康誥の書を作り之に告ぐるに此を以てす、其の以て鼓舞して之を作興し、之をして振奮踴躍して、以て其の惡を去りて善に遷り、其の𦾔を舎て新に進めしむること有らんことを欲すなり、然れども此れ豈に聲色號令の及ぶ所ならんや、亦自ら新にするのみ。
曰、孔氏が小序に、康誥を以て成王周公の書と爲す、而るに子武王を以て之を言うは、何ぞや。
曰、此れ五峰の胡氏(注10)が説なり、蓋し嘗て因りて之を考るに、其れ曰く朕が弟寡兄と云うは、皆武王の自言爲(た)り、乃ち事理の實得たり、而して其の他の證も亦多し、小序の言、深く信ずるに足らざること、此に於て見つ可し、然れども此の書の大義の關(かか)る所に非ず、故に詳を致すに暇あらず、當に別に書を讀む者の爲に之を言うべきのみ。
曰、詩の周は𦾔邦なりと雖も、其の命維れ新なりと言うは、何ぞや。
曰、言は周の邦有る、后稷(こうしょく)自(よ)り以來千有餘年、文王に至りて、聖德日に新にして、民亦丕(おおい)に變る、故に天之に命じて、以て天下を有つ、是れ其の邦𦾔なりと言えども、而も命は則ち新なり、蓋し民の視效は君に在りて、天の視聽は民に在り、君の德旣に新なるときは、則ち民の德必ず新なり、民の德旣に新なるときは、則ち天命の新なること、亦日を旋(めぐ)らさず。
曰、所謂君子は其の極を用いずという所無しという者は、何ぞや。
曰、此れ上の文詩書の意を結すなり、蓋し盤の銘には自ら新にすることを言うなり、康誥には新なる民を言うなり、文王の詩は、自ら新新民の極なり、故に曰く、君子は其の極を用いずという所無し、極は卽ち至善の云なり、其の極を用ゆという者は、其の是に止まらんことを求むるのみ。


(注1)疏瀹澡雪の四字とも、あらいすすぐの意。
(注2)偽古文尚書、仲虺之誥に湯王が夏を討って革命した後の戒めとして仲虺(ちゅうき)に命じて作らせた誥(こう、みことのり)の中にあらわれる。ただし、偽古文尚書は後世の偽作である。以下も同じ。
(注3)偽古文尚書、仲虺之誥にある。
(注4)偽古文尚書、尹訓に相の伊尹が湯王を継いだ太甲(たいこう)に対して訓戒した言葉の中に、湯王を称える内容としてあらわれる。なお荀子臣道篇に「書に曰く、命に從いて拂らず、微諫して倦まず、上と爲れば則ち明に、下と爲れば則ち遜」とあり、ここに楊倞は書の尹訓なり、と注している。偽古文尚書の文と荀子の引用とでは、大意は似ているが表現は異なっている。楊倞は唐代の人なので、楊倞が参照できた尹訓は偽古文尚書であったはずである。
(注5)偽古文尚書、仲虺之誥にある。
(注6)偽古文尚書、尹訓にある。
(注7)詩経、商頌長發「湯降ること遅からず、聖敬日に躋る」より。湯王が天から降されたのは遅くなかった、王の聖敬は日に日に上がった。商頌は殷王朝の賛歌を集めたものである。
(注8)偽古文尚書、咸有一德に、伊尹が太甲に政治を返上したときに与えた訓戒の中にあらわれる。太甲は不徳であって伊尹はこれを桐宮に押し込めて反省を促したことが、孟子ほかの書に見える。
(注9)大戴礼記、武王踐阼篇より。周の武王が践祚したとき、太公望呂尚が王への訓戒として書を授け、武王は恐懼して祭具、装飾具、食器、戸牖(まど)、武具に至るまで銘を刻んだという。大戴礼記は前漢代に戴徳が編纂したと伝わる、儒家の礼関連の文献を集めた書。戴徳は『礼記』を編纂した戴聖のおじである。戴聖が小戴(しょうたい)と呼ばれるのに対して、戴徳は大戴(だたい)と呼ばれる。大戴礼記はその一部しか現存しておらず、大戴礼記と礼記との関係には議論がある。
(注10)五峰の胡氏は、胡宏(ここう。号して五峰)のこと。南宋の儒者で、朱子の親友であった張南軒は五峰の学を継承した。
《要約》

  • 殷の湯王が聖者であったのは、日々新たに己の明徳を清くして利欲のけがれを取り払っていたからである。朱子はここで殷王朝の君臣の言葉として多くを偽古文尚書から引用して湯王の徳を例証し、周の武王が殷の湯王にならったのであろうと推測している。残念ながら、朱子が挙げた例証の真正性は後世の考証によって覆されている。
  • 康誥の言葉は、周の武王が康叔を封ずるときに、殷の遺民が紂王の汚俗に染まり本心を失っているので、これを奮起させて旧を捨て新に進めさせることを諭したものである。なお康誥は武王の次代成王とその摂政周公の言であるという説があるが、朱子は胡五峰の説を支持してこれを武王の言であると考える。
  • 詩の大雅文王の意味は、君主の徳が新なるときは民の徳は必ず新となり、民の徳が新なるときは天命が新なることが日を措かずして実現するということである。
  • 「君子は其の極を用いざる所無し」の極とは、至善のことである。極を用いるとは、至善に止まることを求めるということである。

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