中庸或問跋・第一章後段一 ~中・和・致の意味、気との関係~

投稿者: | 2023年4月20日

『中庸或問』跋・第一章後段一~中・和・致の意味、気との関係~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
或(あるひと)問う、喜怒哀樂の、未だ發せざる之を中と謂う、發して皆節に中る之を和と謂う、中は、天下の大本なり、和は、天下の達道なり、中和を致して天地位し、萬物育すとは何ぞや。
曰、此れ天命の性を推し本づいて、以て敎に由りて入る者、其の始の端を發する所、終の極に至る所、皆吾が心に外ならざることを明す、蓋し天命の性は、萬理具わる、喜怒哀樂各當る攸(ところ)有り、其の未だ發せざるに方(あた)りて渾然として中に在りて、偏倚する所無し、故に之を中と謂う、其の發して皆其の當(とう)を得るに及びて、乖戾(たが)うる所無し、故に之を和と謂う、之を中と謂う者は、性の德に狀(かたど)る所以、道の體なり、其の天地萬物の理、該(か)ねずという所無きを以て、故に天下の大本と曰う、之を和と謂う者は、情の正を著す所以、道の用なり、其の古今人物の共に由る所なるを以て、故に天下の達道と曰う、蓋し天命の性は、純粹至善にして人心に具わる者、其の體用の全う本(もと)皆此の如し、聖愚を以て加損有らず、然れども靜にして之を存する所以を知らざれば、則ち天理昧うして大本立たざる所有り、動きて之を節する所以を知らずんば、則ち人欲肆(ほしいまま)にして達道行われざる所有り、惟だ君子其の睹ざる聞かざるの前自(よ)りして戒謹恐懼する所以の者愈(いよいよ)嚴に愈敬して、以て一毫の偏倚無くして之を守りて常に失わざるに至りては、則ち以て其の中を致すこと有りて、大本の立つこと、日に以て益(ますます)固して爲す、尤も隱微幽獨の際に於て其の善惡の幾を謹む所以の者愈精に愈密にして、以て一毫の差謬無くして之を行う毎に違わざるに至りては、則ち以て其の和を致して、達道の行わること日に以て益廣しと爲す、致(ち)は、力を用いて推し致して其の至を極むるの謂なり、致して其の至を極め、靜にして一息の中ならずということ無きに至りては、則ち吾が心正して天地の心も正し、故に陰陽動靜各其の所に止まりて(注1)、天地此に於て位す、動にして一事の和せずということ無きときは、則ち吾が氣順いて天地の氣も亦順う、故に充足間(へだ)て無く、欣交通じて、萬物此に於て育す(注2)、此れ萬化の本源、一心の玅用、聖神の能事、學問の極功なり、固に始學の當に議すべき所に非ざる者有り、然れども射る者の的、行く者の歸、亦學者志を立つるの初に當に知る可き所なり、故に此の章一篇開巻の首爲ると雖も、然も子思の言、亦必ず此に至りて而して後に已む、其の指深し。
曰、然らば則ち中和は二物か。
曰、其の一體一用の各を觀れば、則ち安んぞ二ならざること得ん、其の一體一用の實を察すれば、則ち此れ彼が體と爲り彼は用と爲る、耳目の能く視聽し視聽の耳目に由るが如し、初より二物有るに非ず。


(注1)気はこの天地宇宙に充満していて、しかも止まることなく運動変転している。気の能・動の状態にあるものが陽、気の受・静の状態にあるものが陰である。陰・陽は個物の恒久的な属性でなく、個物の各時間ごとにおける相対的な配置関係を指すといえる。その陰・陽の流れが清なる状態は、水の流れが静かで澄んでいる状態にたとえられる。逆に濁なる状態は、流れに波が立ちかき乱される状態にたとえられる。
(注2)四書大全で引かれた言。朱子曰、「和するときは交感して萬物育つ。」新安陳氏曰、「中は、心の德。吾が心天地の心に通ず。正しければ則ち俱(とも)に正し。吾が氣順わば、和の驗なり。吾が和氣を以て天地の和氣を感召す。順なれば則俱に順なり。」天地と人間は同じ一気であり、和して人間の気が順となれば人間から発する感(はたらきかけ)に天地の気が応じて和となる。意志がコントロールされれば、「気」と名付けられる人間の自然が順となって天地の順な「気」と感応する。近代思想の前提では人間の理性は肉体から独立してはたらき自然とは交感しない存在のはずだが、朱子学をはじめとする中国思想はその前提が異なっているようである(例:孟子の「浩然の気」論。志が気を養い、養われた気がまた志を維持させて、言葉の意味を理解する理性を確保する関係。)
《要約》

  • 「喜怒哀樂の、未だ發せざる之を中と謂う、發して皆節に中る之を和と謂う、中は、天下の大本なり、和は、天下の達道なり、中和を致して天地位し、萬物育す」の意味。
  • これは、天命の性を推しもとづけ聖賢の教えに従っていく者にとって、始端が発せられるところと終極に至るところとの両者が、すべて吾が心であり心の外部ではないことを明らかにした言葉である。
  • 天命の性は、最初から万理が備わっている(物我一理)。喜怒哀楽の情には、それぞれ妥当な点が発する前から存在している。発する前にはそれらは渾然として心の中にあり、かたよるところがない。これを「中」と呼ぶ。
  • それらが発して妥当な点に着地して離れない状態、それを「和」と呼ぶ。
  • 「中」と呼ぶときは道の体(本体、本質)を指し、万物を兼ね備えているものであり、ゆえに天下の大本とも呼ばれる。「和」と呼ぶときは情が正であるということで道の用(作用)を指し、古今の人間すべてが従うものであり、ゆえに天下の達道とも呼ばれる。
  • 「致」とは、力を用いて推し致して、其の至を極めることである。至を極めて一瞬一息たりとも「中」ならざることはないならば、わが心は正しくなり天地の心も正しく、陰陽動静おのおのしかるべきの所に止まり、天地は正しい位置を得る。動いて一事たりとも「和」せざることはないならば、我が「気」は順となり天地の「気」も順となる。ゆえに(「気」は)充足して我と天地とで乖離することがなく、よろこび交じわり通じて、万物もまた育つ。これは万物化成の本源であり、一心の妙用であり、聖神の能事であり、学問の極功であるが、学問の始めに議論するべきものではない。ただ射る者が狙うところ、行く者が帰するべきところ、学ぶ者が立てるべき志はかくあるべしということであり、『中庸』の開巻第一章にある言葉であるが最後に戻って終わる地点でもある。

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