荀子注序(唐・楊倞)
唐虢州楊倞撰(とうかくしゅうようりょうせん)
昔、周公三五の道を稽古し、夏殷の典を損益し、禮を制し樂を作り、仁義を以て天下を理(お)さむ。其の德化刑政は詩に存せり。幽・厲道を失うに、始めて變風變雅作(おこ)る。平王東遷して諸侯力政す。五霸の後に逮(およ)んでは、則ち王道絕えざること綫(いとすじ)の如し。故に仲尼禮樂(れいがく)を定め春秋を作り、然(しこう)して後に三代の遺風、弛(ゆる)んで復(ま)た張る。而(しこう)して時無く位無し。功烈天下に被ることを得ず。伹(ただ)門人傳述するのみ。陵夷(りょうい)して、戰國に至る。是に於て申商は苛逆、孫吳は變詐、族を以て罪を論じ、人を殺して城に盈(み)つ。談說する者又愼・墨・蘇・張を以て宗と爲す。則ち孔氏の道、息(や)むに幾(ちか)し。有志の士、爲に痛心疾首する所なり。故に孟軻其の前に闡(ひら)き、荀卿其の後に振(しん)す。其の立言指事を觀るに、理要に根極し、往昔を敷陳し、當世を掎挈(きけつ)し、亂を撥し理を興すこと掌を反(かえ)すより易し。眞(まこと)に名世の士、王者の師なり。又其の書も亦六經を羽翼し孔氏に增光する所以(ゆえん)にして、徒(いたずら)に諸子の言に非ざるなり。蓋し周公之を制作し、仲尼之を祖述し、荀・孟之を贊成す。王道を膠固にする所以、至深至備なり。春秋の四夷交侵し、戰國の三綱弛絕すと雖(いえど)も、斯の道竟(つい)に墜ちず。倞末官の暇を以て、頗(すこぶ)る篇籍を窺い、竊(ひそか)に炎黃の風感ず。未だ聖代に洽(あまね)からざるに、謂うに荀・孟時政(じせい)に功有り。尤も耽慕する所なり。而して孟子は趙氏の章句有り。漢代亦嘗て博士を立て、傳習絕えず。故に今の君子、多く其の書を好む。獨り荀子は未だ注解有らず。亦、復た編簡爛脫し、傳寫謬誤あり。好事の者時に亦之を覽(み)ると雖も、文義に至りては通ぜざるに、屡(しばしば)卷を掩(おお)う。夫れ理曉(ぎょう)すれば則ち心に愜(かな)い、文舛(そん)すれば則ち意に忤(さから)う。未だ知らざる者は、異端と謂いて覽(み)ず。覽る者は脫誤を以て終えず。荀氏の書、千載にして未だ光あらざる所以なり。輙(すなわ)ち用て鄙思(ひし)を申抒(しんじょ)し、義理を數尋し、其の徵據する所は則ち諸書に博求す。伹古今字殊に齊楚言異なるを以て、事參考を資(たす)くるに廣からざるを得ず。或は偏傍相近く聲類相通ずるに取り、字少なきは增加し、文重なるは刊削す。或は之を古字に求め、或は之を方言に徵す。孤陋(ころう)寡儔(かちゅう)愚昧(ぐまい)多蔽(たへい)を以てす。穿鑿(せんさく)の責、何に於てか逃る可けん。曾(かつ)て未だ粗(ほぼ)先賢の旨を明(めい)にするに足らず。適(たまたま)其の蕪穢(ぶわい)を增す。蓋し以て自ら省覽に備う。敢て之を將來に傳うるに非ざるなり。文字煩多なるを以て、故に分けて舊十二卷三十二篇を二十卷と爲し、又孫卿新書を改めて荀子と爲す。其の篇第頗る移易有り。類を以て相從わしむと云う。時に歲戊戌(ぼじゅつ)に在り。大唐睿聖文武皇帝(だいとうえいせいぶんぶこうてい)、元和(げんな)十三年十二月なり。
(冨山房『漢文大系十五巻 荀子集解』より)
現代語訳
むかし、周王朝の周公は三皇五帝(中国草創期の君主たち)の道がいかなるものであったかを考え、先行する夏・殷両王朝の法典を増補・削減して、礼法を制定して音楽を作り、仁義の道により天下を治めた。かの時代の徳化と刑罰行政のあり方は、『詩経』の中に見ることができる。しかし幽王・厲王(周王朝を傾けた悪王たち)が正道を見失ったとき、初めて文化の乱れが生じた。周の平王が東の洛陽に遷都した後は、諸侯が力の政治を行った。五覇(中国に一時的な平和をもたらした五人の覇者。誰を数えるかは諸説ある)の時代の後に及んでは、王道が細い糸で辛うじて絶えなかったまでに捨て去られていた。ゆえに孔子は礼法と音楽を定めて『春秋』を著し、彼によって夏・殷・周の三代の遺風は、ゆるんだ後また張り詰めたのであった。しかし孔子は時に合わず、王に即位できなかった。ゆえに彼の功績を天下が受け取ることができなかったのである(注1)。ただ孔子の門人だけが、伝承祖述するだけであった。時代はますます衰え、戦国時代となった。この時代、申不害(しんふがい。法家思想の元祖のひとり)・商鞅(しょうおう。同じく法家思想の元祖のひとり)は過酷暴虐な政策を主張し、孫武(そんぶ。孫子のこと)・呉起(ごき。孫子と同じ兵法家)は狡猾な騙し合いの兵法を主張し、刑罰は一族を連座させて罪を論じる過酷さで、殺人が横行して死体が城内に満ちていた。論を立てる者は、慎到(しんとう。道家で韓非子に影響を与えた)・墨翟(ぼくてき。墨家の祖)・蘇秦(そしん。縦横家)・張儀(同じく縦横家)などを始祖として信奉していた。こうして孔子の道は、断絶寸前であった。志ある士は、心痛んで悩んだ。ゆえに孟軻(孟子)は先に道を開き、荀卿(荀子)は後に道を盛んにした。彼らの行動と指摘を見るに、道理に根ざし、いにしえの道を再説し、同時代を啓蒙し、乱説を斥けて道理を盛んにするのは彼らにとって手の平を返すようにたやすいことであった。彼らはまことに世に名だたる士、王者の師であった。また彼らの著作も六経(りくけい。儒学の聖典)を解説して孔子を称えるものであり、他の諸子百家の言うことと単に同一視するべきものではない。つまり六経は周公がこれを制作し、孔子がこれを祖述し、孟・荀がこれに賛同したものである。彼らが王道を強固にしたところは、甚大にして深い。春秋時代に四方の蛮族が侵攻し、戦国時代に三綱(さんこう。君臣・父子・夫婦の倫理)がゆるんで絶えたとしても、正道はついに墜ちなかった。それがし楊倞は、末官の余暇をもって大変に書籍を読み、心ひそかに炎帝・黄帝(えんてい・こうてい。中国草創期の君主、神農と黄帝のこと)の風に当てられた。荀・孟はいまだ天下平定の聖代に生きていなかったのに、後世の政治に功績があった。これは、それがしの尤も慕うものである。しかるに『孟子』には漢の趙岐(ちょうぎ)が「章句」を著して注釈し、その漢代には博士(はくし。経典の国費研究者)が立てられて伝承学習は絶えなかった。こうして今、唐代の君子たちの多くが『孟子』を好むに至っている。なのに荀子の著作(注2)だけが、まだ注解がない。そのうえ、テキストは乱れて脱落し、伝写にはまちがいがある。興味を持った者がこの書を読んだとしても、文章の意味が取れず、たいていは本を置いてしまうのだ。そもそも意味が明らかになれば、心に留まるものだ。だが文章が乱れていれば、読む気をくじくものだ。荀子の書を未読の者は、異端と言って読まない。だが読んだ者は脱落過誤のせいで最後まで読めない。こうして荀子の書は、唐代の今まで千年が経っても、まだ光が当たらないのである。よって、それがしはこれを取り上げて、愚考を述べ、文義を推定し、その書が引用するところはもろもろの書物からひろく捜し求めた。ただ、古字と現代字、とりわけ古代の斉・楚の言葉が現代とは異なっているために、参考に役立てる範囲をどんどん広げていかなければならなかった。あるいは偏(へん)と旁(つくり)が似通っている字、あるいは声調が通じる字に入れ替えて解釈し、字足らずであると思われる部分は補い、文が重複している部分は削った。あるいは古代字から参照し、あるいは方言から取った。このそれがしは、ひとりよがりで、同好の士も少なく、愚かで、分かっていないところが多い。そんな作業であったので、それがしの穿鑿(せんさく)の責めを逃れることはできない。まだまだ先賢である荀子の意図を明確にするには足りない。むしろますます混乱させてしまったくらいだ。なので、これはあくまでも自分の覚え書きである。あえて将来に伝えよう、などと思わない。この書は文字数が多すぎるので、旧十二巻三十二篇を二十巻となし、また『孫卿新書』の名を改めて『荀子』とする。各篇の並び方も、相当に入れ替えた。同類の内容の篇をもって、連続させたのである。
(注2)後述のように、唐代楊倞の校訂までは『荀卿新書』(『孫卿新書』)であった。楊倞の校訂により『荀子』と改められた。
荀子増注序(日本・久保愛)
秦漢諸儒の錄する所を觀るに、荀子の德隆(さかん)なるかな。乃(すなわ)ち當時の人、成湯・文王・伊尹・管仲を以て之に比するに、孟子は聒(やかまし)くして之を語る。其の辨を好むを議せる者は之有り、其の之に許せる者を聞かず。亦唯(た)だ自ら聖賢を以て居りしのみ。豈(あ)に況の學は行事に在りて軻の才は止(ただ)口舌のみならんか。其の門に遊び其の業を受けたる者も、亦皆其の師の行う所に則り效(なら)い、或は一時奪席の言を爲し、或は軍國經略の言を述ぶ。萬章・公都子の輩が爭辨せる所、李斯・韓非子等の筆記せる所、殺靑の餘に章章たり。二叟(にそう)家學の學風を觀るが如きなり。若し夫れ性善性惡の殊異、堯舜を稱し後王に順(したが)うの不同、優劣有るに非ず。道術天下に裂かれ、虛無を以てする者有り、恬憺(てんたん)を以てする者有り、非鬪非樂(ひとうひがく)を以てする者有り、堅白同異を以てする者有り。學士各(おのおの)其の見る所に據り、以て流派を立て、互に相競爭す。則ち孟荀亦此れを以て當世の人と辨ぜるのみ。孟子の書七篇、追琢既に盡き、斐然として章を成せり。蓋し天下後世に傳えんと欲して之を著せる者なり。荀子の書三百二十二篇、重複する者有り、䮞駁(しゅんばく)(注)なる者有り。二百九十篇を除くと雖も、猶(なお)尙(なお)煥乎(かんこ)たらざる者有り。蓋し雜記して特(ひと)り門人に示し、天下後世に傳うるの志無かりし者なり。唯其の言肓(むなもと)の上膏(むなもと)の下に入る。有士の君、輔國の臣、其の一言を聞けば、邦家を興すに足る者有り。則ち天下の大、一人の之を尊信する者の無きこと能わず。孟子精撰と雖も、動(やや)もすれば輙(すなわ)ち言行相反して、大事を委任し難き者有り。則ち海内の廣き、一人の其の短を窺う者有らざる能わず。是を以て弈世提衡(えきせいていこう)し、聲譽相發せり。唯是れ孟子の書は夷(い)なり。其の之を誦する者、皆章句を疎明し、善く誤脫を正す者なり。荀子の文は奇なり。其の之を閱する者皆有(また)大略にして樞要を取る。章句を拘攣(こうれん)し、善く錯亂を辨ずる者に非ざるなり。乃ち一登仕郞之に注せり。其の寡儔(かちゅう)なる、焉(いずく)んぞ其の義を盡くすを得んや。吾が山夫子(さんふうし)、既に經蓺(けいげい)を正し、其の餘力を以て施(し)きて諸子に及ぶ。先時葛西應禎が飜刻せる荀子を觀るに、之を諸家に比すれば長ずる所有るに似たれども、猶お尙お正文誤脫し、注文錯亂し、頗る讀み難き者有り。是に於て博く羣書(ぐんしょ)を考えて、明かに是を辨ぜり。愛壯年の日、其の說に據りて、以て增注を作れり。近日將(まさ)に上木せんとす。開きて之を閱すれば、猶お未だ安からざる者有り。是に於て再び校するに諸家の本を以てす。而(し)かる後に物子・山子以來疑える所の者、渙然として一時に氷釋せり。唯未だ宋刻の原本を見ず。是を以て猶お豫して未だ誤を正し脫を補わず。俄にして友人狩谷卿雲宋本を得たり。就きて之を校すれば、雲霧始めて開け、白日再び明かなり。乃ち宋本の善なる者に據りて之を正す。閒(まま)亦元刻を以て之を改めたる者有り。何となれば則ち二本は原なればなり。又享保以來、諸儒先の論ずる所にして、苟(いやしく)も補正す可き者有れば、盡(ことごと)く之を取り、必ず其の姓名を錄して、以て之を分けたり。而して後師說に增益せる者は、十の三四に止まらず。夫れ荀卿業に已に不遇。其の書亦大(おおい)に行われず。楊倞之に注して、世亦之を知る者少し。則ち先師之に精(くわ)しと雖も、愛之を增益すと雖も、豈に必ずしも海内の紙をして貴(たか)からしむるを期せんや。然りと雖も世洙泗(しゅし)の流に泝(さかのぼ)り政に從わんと欲して之を取る者有らば、未だ嘗て少(すこしく)裨益無くんばあらず。
文政庚辰。冬十一月。
信州久保愛撰。
(冨山房『漢文大系十五巻 荀子集解』より)
現代語訳
秦・漢代の儒者たちの記録を見ると、荀子の人徳は大したものであった。当時の人は、湯王(とうおう。殷王朝の開祖)・文王(ぶんおう。周王朝の開祖)・伊尹(いいん。湯王を補佐した宰相)・管仲(かんちゅう。斉の桓公を覇者とした宰相)を荀子と比較していた。なのに、孟子は口うるさい者として言及するばかりであった。孟子が議論好きであったことを論じる者はいたが、孟子を是認する者はいなかったのである。しかし孟子とていにしえの聖賢の道を守って留まっていたら、こうなったまでなのである。荀子の学が実際の業績にあって、孟子の才能が口舌にしかなかったわけがあるまい。両者に入門し両者に学んだ弟子たちもまた、師の行いを模倣して、あるいは師のお株を奪う論を立てたり、あるいは軍国経略の時事論議を行ったりしたことであろう。萬章・公都子(ばんしょう・こうとし。孟子の弟子)たちが論争したこと、あるいは李斯・韓非子たちが記録したところ、これらは残された記録の間に満ち溢れているはずだ。(だから孟子、荀子のテキストを読むことは、)孟・荀二老師の家学の学風を観ているようなものだ。そもそも性善説・性悪説の相違とか、孟子が堯舜を称えたのに対して荀子が現代の為政者を認める点の違いとか、これら両者に優劣はないのである。当時、政治の道と術は天下でばらばらに分裂し、あるいは虚無論を唱える者(道家)とか、あるいは恬淡の人生論を唱える者(宋鈃など)とか、あるいは非闘非楽の政治を唱える者(墨家)とか、あるいは堅白同異の議論を唱える者(名家)とかがいた。当時の学士たちは、それぞれの見地に立って流派を立てて互いに相争っていた。なので孟・荀もまた当時の流儀に従って当時の人と論じ合っていたにすぎない。『孟子』七篇は、推敲が尽くされていて華麗な文章である。きっと天下の後世に伝えようとしてこの書を作ったのであろう。荀子の書はもと三百二十二編あり、重複があり、また混じり合って乱れていた。そこから劉向が二百九十篇を除いたとはいえ、まだはっきりとしないところがある。きっと荀子は雑記して門人に見せたにとどまり、自著を天下後世に伝える意志がなかったのであろう。しかしその言葉は、人の肺腑をえぐるものがある。家臣を率いる君主や国を助ける家臣がその一言を聞けば、国を盛んにするに足るものがある。よって、広い天下において荀子の書を尊信する者が一人もいない、というわけにはいかなかったのである。孟子はよく言葉を選んだが、ややもすれば言行が不一致であり、この人に大きな事を委任することは難しいところがあった。なので、広い天下において孟子の短所をあげつらう者が一人もいない、というわけにはいかなかったのである。こういうわけで時代を通じて両者は比較されて、両者ともに賞賛の声が出たのであった。ただ、『孟子』の書は簡略平易である。この書を暗誦する者は、みなその章句を補って読み、誤字や脱落を修正して読むことができる。『荀子』の文は難解奇説である。この書を読む者は、みなまた大筋を取って要点を得る読み方をする。章句の詳細にこだわって、文の錯乱を論じて読むことはない。そこで一登仕郎(楊倞)が、これに注を付けた。しかし彼は、同好の士が少なかった。文意を完全に掴むことがどうしてできたろうか。わが師の山夫子(片山兼山)は、生前すでに儒学の正統テキストの検討を終えて、その余力を持って諸子の研究に進んだ。先日葛西應禎が翻刻した『荀子』を読むと、他の学者たちの書に比べれば長じた点があるものの、いまだ本文に脱字誤字があり注釈に錯誤混乱があり、すこぶる読み難いものがあった。ここにおいて諸書を参照して、『荀子』を明らかに検討することとなった。それがし愛は壮年のとき、師の説に依拠して「増注」を作った。近年、これを出版しようとして再読してみたところ、まだ得心できかねる点があった。こうして再検討するために、学者たちの書籍に当たった。そうした後に、物氏(荻生徂徠)や山夫子以来疑問であった点が、ついに一挙に理解できた。ただ、まだ宋刻(宋代の版本)の原書を見ていなかった。なので、まだ修正補筆を控えていた。そのとき突如、友人の狩谷卿雲が宋本を得たのであった。これに取り掛かって検討すると、初めて雲が晴れて白日が見えたがごときであった。こうして優良な宋本に依拠して校訂したのであった。だが時には元刻(元代の版本)によって本文を改めたこともあった。宋刻・元刻といっても、もとは楊倞の本に由来するのであって、オリジナルは一つであるのだから(適宜に取捨選択したのである)。また享保年間以来の先行する儒者たちが論じたところで、いやしくも補正に用いるべき指摘があれば、それをことごとく取り上げて必ず姓名を記録し、分けておいた。こうした後でわが師の説に対して増補したものは、十のうち三・四にとどまらなかった。荀卿(荀子)は、生前の事業において不遇であった。その書もまた、あまり広まらなかった。楊倞がこれに注したが、それでも世にこれを知る者は少ない。なのでたといわが師が詳しくこれを検討し、またそれがしがこれを増補したといっても、天下の紙価を高騰させるほどに大売れすることなど期待できるはずもない。とはいえ、世の中で洙(しゅ)・泗(し)の川の流れを遡り(注)、その政治論に従おうとしてこの書を取り上げる者がいたとすれば、この書が少しも役に立たないということはないであろう。