Year | 出来事 | 荀子関係 |
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BC339前後? | 荀子生まれる荀子は趙国の出身である。(『史記』孟子荀卿列伝) | |
BC289 | この頃孟子死去 | |
BC285 | 燕将楽毅を中心とした連合軍、斉の都を陥とす。斉の湣王(または湣宣王)死す | 荀子、斉湣王の末年に斉を去り楚に行く(『塩鉄論』) 荀子、この頃までに50歳で斉に初めて遊学したか? |
BC280 | 斉将田単、斉襄王を即位させる | 斉襄王の時代(~BC264)、荀子は稷下で最長老の老師であった(『史記』孟子荀卿列伝) |
BC266 | 范雎、秦の宰相となる | 荀子、これ以降秦に赴いて范雎と会見(『荀子』) |
BC265 | 趙、孝成王即位 | 荀子、これ以降趙に赴いて孝成王と会見(『荀子』) |
BC264 | 斉、襄王死して斉王建即位 | |
BC260 | 長平の戦いに決着。趙、秦に惨敗する。 秦と単独で戦える最後の勢力であった趙が敗れたことによって、秦の中国世界での優位は決定する |
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BC255 | 荀子、讒言に会って斉を去る楚の春申君に蘭陵の令に任命される(『史記』孟子荀卿列伝および春申君列伝)これ以降、蘭陵で弟子の育成に当たる | |
BC246 | 秦、荘襄王死して秦王政(のちの始皇帝)即位 | この頃、荀子の弟子の李斯が秦に赴き、呂不韋の家臣となる |
BC238 | 春申君暗殺される | 荀子、令を解任されたが蘭陵に定住する(『史記』孟子荀卿列伝) |
BC238以降 | 荀子、蘭陵に葬られる(『史記』孟子荀卿列伝)。『劉向校讎叙録』は、蘭陵の長老はいま(BC26年)に至るまで孫卿(荀子)を称えて、「蘭陵人が字(あざな)として『卿』を名乗ることを好むのは、きっと孫卿にならっているのでしょう」と言う、と書いている。 | |
BC233 | 荀子の弟子の韓非子が、秦で獄死 | |
BC221 | 秦始皇帝、中国を統一 | 李斯は始皇帝の丞相となる |
BC210 | 始皇帝死去 | |
BC208 | 李斯、趙高によって刑死 | |
BC207 | 秦、項羽・劉邦の軍によって滅亡 | |
BC202 | 劉邦の漢帝国、項羽を滅ぼし中華を統一漢の宮廷では、儒者の叔孫通により礼楽が導入された | |
BC141 | 漢の武帝即位(~BC87)武帝は、董仲舒の献策を入れて儒教を国教とした | |
BC26 | 劉向、『荀卿新書』を漢成帝に提出 |
荀子の姓は荀、名は況(きょう)である。しばしば尊敬の称号である「卿」を付けて、荀卿あるいは孫卿と呼ばれる。『荀子』の中では孫卿と呼ばれることが多い。各記録で姓の代わりに「孫」字が用いられてる理由は、漢の宣帝(BC91-49)の姓名劉詢(りゅうじゅん)の名を避けたためであるという説明が楊倞らによって成されているが、重澤俊郎氏はこれを斥け、荀子が春秋時代の邭国(じゅんこく)の公孫つまり君主の子孫であったところから弟子が公孫への尊称である「孫」字を用いたのであろう、という説を採用している。しかしこれも確証がない。
荀子は春申君の暗殺後に蘭陵に留まり、そこで没したのであろう。『史記』は彼が50歳で初めて斉に遊学したと言い、斉襄王の時に「最も老師たり」と言う。もし荀子が斉襄王の末年ごろに始めて斉に現れたとすれば、荀子の生年はBC314年ごろとなろう。しかし上の『塩鉄論』の言及、あるいは『荀子』彊国篇における斉の宰相との問答が明らかに斉湣王末年の国際情勢を語っているところを見ると、荀子は斉湣王末年ごろに初めて斉に現れたという重澤俊郎氏の考証のほうが妥当であると思われる。すると、荀子は最低でも90歳以上生きたことになる。もっとも、『史記』の記述が本当に正確な情報であったのかどうかは、もはや検証する手掛かりはない。
参考文献:重澤俊郎『荀況研究』、大空社『周漢思想研究』(1998年)所収 / 服部宇之吉『荀子解題』、冨山房『漢文大系十五巻 荀子集解』(大正二年)所収