彊国篇第十六(3)

By | 2015年4月27日
力の統治術は行き詰まるが、義の統治術はうまく行く。これは、どういう意味であるか。それは、秦国のことを言うのである。いま秦国は、勢威は湯王・武王よりも強く、領地の広さは禹・舜をも上回っている。なのにかの国は憂慮することが後を絶たず、戦々恐々として、天下の諸国が一体となって自国を踏み潰すことを常時恐れているではないか。これが、力の統治術は行き詰る、ということなのだ。

どうして、秦国の勢威は湯王・武王よりも強いと言うか。湯王・武王は、自らを喜んでくれる者だけを使役することができた。だが秦国は違う。いまの楚王(頃襄王)の先代であった父王(懐王)は秦のために死に、国土は秦のために奪われた。いまの楚王は、秦軍によって奪われた地から父祖三代の位牌を持ち運び、陳(ちん)・蔡(さい)地方に避難したのであった(注1)。楚王は機会を見て隙をうかがい、いつか起ち上がって秦国の腹を足で踏みつけてやろうと願っているのだ。にもかかわらず、楚王は秦国が左を向けと言えば左を向き、右を向けと言えば右を向く体たらくに陥っている。これは、己をかたきとする者を手の内で使っているようなものである。ゆえに、秦国の勢威は湯王・武王よりも強いと言う。

どうして、秦国の領地の広さは禹・舜をも上回っていると言うか。いにしえの王たちは、天下を統一して諸侯を家臣としたときでも、千里(400km)四方以上の直轄領を持った者はいなかった。だが秦国は違う。いまの秦国は、南は沙羨(さい。湖北省)を領有して、これを併合した。つまり、江南地方である。北は胡(こ。北方の遊牧民)・貊(ばく。同)と隣接し、西は巴(は。四川省。現在の重慶近辺。)・戎(じゅう。チベット高原の民)を従え、東では楚国から占領した土地をもって斉国と境界を接し(注2)、韓国からは常山(じょうざん。不明)を越えて臨慮(りんりょ。河南省)まで占領し、魏には圍津(いしん。河南省)に拠点を築いて、魏都の大梁(たいりょう。河南省。後世の開封。)からわずか百二十里(48km)にまで迫り、趙国への侵略は苓(れい。不明)を占領して趙国の松柏の塞(注3)に陣取り、西海(さいかい。不明。ゴビ砂漠であろうか?)を背に常山(じょうざん。藤井専英氏は所在地不明と言う。)の地を固めている。このように、秦の領地は天下にあまねく広がっていて、勢威は海内を動かし強さは中国全体を脅かしている。ゆえに、秦国の領地の広さは禹・舜をも上回っていると言う。なのにかの国は憂慮することが後を絶たず、戦々恐々として、天下の諸国が一体となって自国を踏み潰すことを常時恐れているではないか。

では、どうすればよいのか。それは、勢威を抑えて、礼義の正道に帰ることである。すなわち誠実で忠信な君子を登用して天下を治め、これらとともに国政を執り、是非を正して曲直を裁き、秦都の咸陽(かんよう。陝西省)で政事を聴くのである。従順なる者はそのままに、不従順なる者にして初めて罰するのである。このようであれば、その兵を国外に繰り出すことなくして、君主の命令は天下で行われるであろう。ここまで来れば、この君主のために明堂(めいどう。天子が諸侯を朝参させる堂)を築いて諸侯を朝参させてもよいだろう。今の時代においては、領地を増やすよりは信頼を増やすことに努めたほうがよいのである。


(注1)楚の懐王は騙されて秦国に抑留軟禁され、そこで死んだ。BC278年、秦国は楚の都郢(えい)を陥落させ、祖先の楚王の墓所であった夷陵(いりょう)を焼いた。楚の頃襄王は、陳(ちん)に退いた。その後は陳が楚国の都となったが、次の孝烈王のときに寿春(じゅしゅん)に遷都した。
(注2)楚から奪った領地で秦国と斉国が境界を接したのは、始皇帝の代になって楚国を亡ぼしたときのように思われて、この説明がなされている時代と合わない。秦国と斉国とが最初に境界を接したのは、おそらくBC242年に秦国が魏国から東方の領地を奪ってここに東郡を置いたときではないだろうか。これも戦国時代末年であり、時代が合わない。それ以前の時代となると、秦の宰相の魏冄(ぎぜん)が陶(とう。山東省)に封地を得ていて、これは斉国と接していたと思われるが、これは秦国の本領とはいえない。あるいは、ここあたりの文には何か脱文があるのかもしれない。または私が把握できていない、領地の変遷があるかもしれない。
(注3)楊注によると、趙国は秦国の境界線に松と柏(このてがしわ)を植えていたという。これを松柏の塞と言うらしい。
《原文・読み下し》
力術は止み、義術は行わるとは、曷(なん)の謂(いい)ぞや。曰く、秦の謂なり(注4)。威は湯・武より强く、廣は舜・禹より大なり、然り而して憂患勝(あ)げて校(かぞ)う可からざるなり、諰諰然(ししぜん)として常に天下の一合して己を軋(あつ)せんことを恐るるなり、此れ所謂(いわゆる)力術止むなり。曷(なに)をか威は湯・武より强しと謂うか。湯・武なる者は、乃ち能く己を說(よろこ)ぶ者をして使せしむるのみ。今楚は父死し、國舉(あ)げられ、三王の廟を負いて、陳・蔡の間に辟(さ)く、可を視、間を伺いて、安(すなわ)ち其の脛を剡(あ)げて以て秦の腹を蹈(ふ)まんと欲す。然り而して秦左せしむれば案(すなわ)ち左し、右せしむれば案ち右す、是れ乃ち讎人(しゅうじん)をして役せしむるなり。此れ所謂(いわゆる)威湯・武より强なるなり。曷(なに)をか廣舜・禹より大なりと謂うか。曰く、古は百王の天下を一にし、諸侯を臣にするや、未だ封內千里に過ぐる者有らざるなり。今秦南は乃ち沙羨(さい)を有して與(とも)に俱(とも)にす、是れ乃ち江南なり。北は胡(こ)・貊(ばく)と鄰を爲し、西は巴(は)・戎(じゅう)を有し、東楚に在る者は乃ち齊に界(さかい)し、韓に在る者は常山(じょうざん)を踰(こ)え乃ち臨慮(りんりょ)を有し、魏に在る者は乃ち圉津(いしん)(注5)に據(よ)り、即ち大梁(たいりょう)を去ること百有二十里のみ、其の趙に在る者は剡然(えんぜん)として苓(れい)を有して松柏(しょうはく)の塞に據り、西海を負いて常山を固とす、是れ地天下に遍(あまね)きなり。威は海內を動かし、强は中國を殆うくす。此れ所謂舜・禹より廣大なるなり。(注6)然り而して憂患勝げて校る可からざるなり、諰諰然として常に天下の一合して己を軋せんことを恐るるなり。然らば則ち奈何(いかん)。曰く、威を節して文に反る。案(すなわ)ち夫(か)の端誠・信全の君子を用いて天下を治め、因って之と國政に參し、是非を正し、曲直を治め、咸陽(かんよう)に聽き、順なる者は之を錯(お)き、不順なる者にして而して後に之を誅す。是の若くなれば、則ち復た塞外に出でずして、令天下に行われん。是の若くなれば、則ち之が爲に明堂を築きて[於塞外](注7)諸侯を朝すと雖も、殆(ほと)んど可なり。今の世に假(いた)りて、地を益すは信を益すの務(つとめ)に如かざるなり。


(注4)集解の盧文弨は、楊注が『新序』に李斯の質問に対する荀子の返答として「力術は止み、義術は行わる。秦の謂なり」とあることを指摘している。しかしながら現存している『新序』には、楊注が指摘している部分が見えない。
(注5)楊注は「圉」字は「圍」とするべきと言う。
(注6)アンダーラインについて、原文はこの下の「己を軋せんことを恐るるなり」の後にある。しかし多くの注釈者たちはこれを今の箇所に持ってくるべき、と言う。ひとり兪樾は、「是れ地天下に遍(あまね)きなり」の後に持ってくるべき、と言う。その言にも一理あるが、ここは多数説を取る。
(注7)楊注はこの三字を衍字と言う。

上の注4にも書いておいたが、楊注によればこの問答は李斯と荀子の問答であったのかもしれない。ならば、議兵篇(4)の問答に続いて、荀子が李斯に反論して秦国の将来は暗い、と説いたということになる。これを問答形式と読んでもよいし、荀子のモノローグと読んでもよい。上の訳は、モノローグ形式にした。

この叙述は、続く秦国の宰相范雎(はんしょ)との問答の導入部となっている。荀子はほかに儒效篇において、秦の昭襄王(しょうじょうおう)とも問答している。劉向は校讎叙録でそのいきさつをこう書いている。

孫卿(荀子)が諸侯の招聘に応じたことを述べると、まず秦国の昭襄王に謁見した。昭襄王は戦争・征伐を喜ぶ人であったが、孫卿は夏・殷・周三代の法をもって王に説いた。だが秦の宰相応候(范雎)が彼の建策を全く用いようとしないので、趙国に向かった。
《原文・読み下し》
孫卿の聘(へい)に諸侯に應(おう)ずるや、秦の昭王に見(まみ)ゆ。昭王方(まさ)に戰伐を喜ぶ、而(しか)るに孫卿三王の法を以て之に說く。秦の相應候(おうこう)皆用うること能わざるに及んで、趙に至る。

荀子もまた孟子と同じく、自らの建策が戦国諸侯たちによって用いられることはなかった。

今回のくだりで出てくる楚の懐王が秦国に抑留軟禁されて死んだエピソードは『史記』楚世家に書かれているのであるが、確かに秦国のやり方はひどい。懐王が死んだとき楚国の国人は王の死を哀れみ、諸侯はこのことによって秦国を信じなくなった、と書かれている。しかしながら秦国の力は他国に比べて圧倒的であり、斉国のように諸国が連合してこれを潰したようにはならなかった。秦国は地理的にも斉国より有利であり、本拠地である関中盆地は堅い函谷関に守られて攻められにくく、かつ西の辺境に位置していたので背後からの攻撃を気にすることも必要がなかった。この関中盆地から秦国は兵を繰り出して、占領した土地を着々と自国の法と官吏の支配下に置いたのであった。関中盆地の戦略的な有利性は、続く前漢王朝と隋唐王朝もまたここに長安城を築いて都を置いたことから理解できる。ただし後の時代では中国の農業生産は長江流域が担うようになり、関中盆地は遠すぎて都には選ばれなくなった。宋以降の統一王朝は、大運河を通じて穀倉地帯との水運が確保できる地点に都が置かれるようになった。

荀子は上に訳出した叙述においても秦国を批判して、力の統治術では行き詰る、と言う。しかし歴史は、秦国を行き詰らせなかった。これは、どうしてであろうか。この後に続く范雎との問答においては、秦国の統治は素晴らしい、と荀子は言う。だがその後に、しかし儒家の術が行われていないので、王者の功名に遠く及ばない、と付け加える。荀子は、自らのイデオロギーによる秦国への厳しい視点と、実際に目で見て耳で聞いた秦国の実態とが、整合しないことに苦慮していたのではないだろうか。秦国は、前のくだりで批判された斉国の乱れた国情とは、明らかに違っていた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です