臣道篇第十三(1)

By | 2015年10月10日
人臣の区分について。態臣(たいしん)すなわち君主にへつらう家臣というものがいて、簒臣(さんしん)すなわち君主に従わない家臣というものがいて、功臣(こうしん)すなわち君主に功績を挙げさせる家臣というものがいて、聖臣(せいしん)すなわち君主に天下を統一させる家臣というものがいる。国内では人民を斉一にするには足らず、国外には国難を防ぐには足らず、人民はこれに親しまず、諸侯はこれを信用せず、そのくせ行動は巧妙かつ敏捷でおもねりへつらい、主君の寵愛を受ける。これが、態臣というものである。上には君主に忠でないが、下には人民から栄誉を受けて、公正な正道も普遍的な正義もかえりみず、徒党とともに馴れ合って、君主をまどわし私利を企むことに努める。これが、簒臣というものである。国内では人民を斉一にするに足り、国外には国難を防ぐに足り、人民はこれに親しみ、士はこれを信頼し、上には君主に忠、下には人民を愛して倦(う)まない。これが、功臣というものである。上には君主をよく尊び、下には人民をよく愛し、打ち出す政令と教化が下の者たちの規範となることは影が従うようであり、急事に応じて変事に対することが敏速であることは打てば響くがごとくであり、類推判断して予想を立てて、予想外の事態が起こっても、細かな点まで規則に従って見事に対処することができる。これが、聖臣というものである。ゆえに聖臣を登用する者は王者となり、功臣を登用する者は強くなり、簒臣を登用する者は危うくなり、態臣を登用する者は滅亡する。態臣が登用されたならば君主は必ず死に、簒臣が登用されたならば君主の身は必ず危うくなり、功臣が登用されたならば君主は必ず栄え、聖臣が登用されたならば君主の名は必ず尊くなる。ゆえに斉の蘇秦(そしん)、楚の州侯(しゅうこう)、秦の張儀(ちょうぎ)(注1)は、態臣というべき者である。韓の張去疾(ちょうきょしつ)、趙の奉陽(ほうよう)、斉の孟嘗(もうしょう)(注2)は、篡臣というべき者である。斉の管仲、晋の咎犯(きゅうほん)、楚の孫叔敖(そんしゅくごう)(注3)は、功臣と言うべきである。殷の伊尹(いいん)、周の太公(たいこう)(注4)は、聖臣と言うべきである。これが人臣の区分であり、国の吉凶・君主の賢愚を決める究極の要点である。これを必ずつつしんで記録し、つつしんで自ら選び取るならば、君主の家臣を選ぶための参考となりえるだろう。


(注1)州侯は、楚の襄王の佞臣で、『戦国策』『韓非子』に見える。蘇秦は戦国時代中期の遊説家で、趙国の宰相に就任して秦国に対抗する六国連合を成立させる「合従」策を行った。張儀は蘇秦と同時代の秦の宰相で、蘇秦の死後にその合従策をくつがえして六国を秦に服属させる「連衡」策を行った。蘇秦は趙国の宰相から失脚した後に斉国に仕えてそこで死んだので、斉の蘇秦と言ったのであろう。だが後世に外交策の規範を示した蘇秦・張儀と、無名の佞臣である州候とを同列に論じて批判してよいものであろうか。
(注2)張去疾について楊注は「けだし張良(ちょうりょう。漢の高祖劉邦に仕えた名軍師)の祖」と言う。奉陽とは、奉陽君(ほうようくん)のこと。趙の粛候の弟で宰相であった。蘇秦は趙国に最初に遊説に赴いたとき、奉陽君に喜ばれずに失敗した。一年余の後燕の文候の説得に成功して資金援助を受けて再度趙国に遊説に入ったときには、すでに奉陽君は死去していた。かくして蘇秦は粛候を説得することに成功した。孟嘗とは孟嘗君のことで、斉の公子田文(でんぶん)。戦国四君子の一に数えられる。斉王によって薛(せつ)の地に封じられて薛公と呼ばれ、数千人の食客を抱えたという。斉の湣王(びんおう)が権勢のある孟嘗君を除こうとしたので、逃亡して魏国の宰相となって燕・秦・趙とともに斉王を討った(この斉討伐戦争については、彊国篇(2)のコメントにその経過を記した)。湣王が死んで襄王の代に代わっても、薛公(孟嘗君)は諸侯の間に中立の関係を保ったという。このように斉王の一族でありながら必ずしも斉国に従わなかったので、荀子から簒臣のカテゴリーに入れられたのであろう。
(注3)管仲は、荀子が繰り返し言及する斉の桓公の宰相。咎犯は、春秋覇者の一である晋の文公の名臣、孤偃(こえん)のこと。字(あざな)は犯で、咎は舅(きゅう。しゅうと)と同じ意。文公の舅(しゅうと)であったので、咎犯と呼ばれた。晋国を追われて諸国を流浪する文公に付き従い、文公が帰国して国を継いだ後は、文公を補佐してこれを覇者とすることに大きく貢献した。孫叔敖は、非相篇にも表れる。
(注4)伊尹は、『孟子』萬章章句上、七参照。太公は、太公望呂尚のこと。君道篇(4)注3を参照。
《原文・読み下し》
人臣の論(りん)(注5)。態臣(たいしん)(注6)なる者有り、篡臣(さんしん)なる者有り、功臣なる者有り、聖臣なる者有り。內は民を一にせしむるに足らず、外は難を距(ふせ)がしむるに足らず、百姓親しまず、諸侯信ぜず、然り而して巧敏・佞說(ねいえつ)にして、善く寵を上に取る、是れ態臣なる者なり。上は君に忠ならず、下は善く譽(よ)を民に取り、公道・通義を卹(かえり)みず、朋黨(ほうとう)・比周し、主を環(まど)わし(注7)私を圖(はか)るを以て務(つとめ)と爲す、是れ篡臣なる者なり。內は民を一にせしむるに足り、外は難を距がしむるに足り、民之を親しみ、士之を信じ、上は君に忠に、下は百姓を愛して倦(う)まず、是れ功臣なる者なり。上は則ち能く君を尊び、下は則ち能く民を愛し、政令・敎化の、下に刑(のっと)らしむる(注8)こと影の如く、卒に應じ變に遇するに、齊給(せいきゅう)なること響(ひびき)の如く、類を推し譽(よ)(注9)に接し、以て無方を待ちて、制象を曲成す、是れ聖臣なる者なり。故に聖臣を用うる者は王に、功臣を用うる者は强く、篡臣を用うる者は危うく、態臣を用うる者は亡ぶ。態臣用いらるれば則ち必ず死し、篡臣用いらるれば則ち必ず危うく、功臣用いらるれば則ち必ず榮え、聖臣用いらるれば則ち必ず尊し。故に齊の蘇秦(そしん)、楚の州侯(しゅうこう)、秦の張儀(ちょうぎ)は、態臣と謂う可き者なり。韓の張去疾(ちょうきょしつ)、趙の奉陽(ほうよう)、齊の孟嘗(もうしょう)は、篡臣と謂う可きなり。齊の管仲、晉の咎犯(きゅうほん)、楚の孫叔敖(そんしゅくごう)は、功臣と謂う可し。殷の伊尹(いいん)、周の太公(たいこう)は、聖臣と謂う可し。是れ人臣の論(りん)(注5)にして、吉凶・賢不肖の極なり。必ず謹んで之を志(しる)して、愼んで自ら擇取(たくしゅ)することを爲せば、以て稽(かんが)うるに足らん。


(注5)集解の王先謙は、「論」は「倫」の借字であると言う。儒效篇(9)注9と同じ。
(注6)猪飼補注は、「佞媚の態を以て其の君に事(つか)う」と言う。
(注7)集解の王念孫は、「環」は読んで「営」となし、営は惑なり、と言う。君道篇(5)注8では「還」字を「営」と読む説を取ったが、そちらでは「いとなむ」と読んだがこちらでは「まどう」と読むことになる。
(注8)集解の王念孫は、「刑は法なり。下の上に法(のっと)ること影の形に従う如きを言う」と言う。のっとる。
(注9)「譽(誉)」について、楊注の声誉とみなす説に反対して二説が提出されている。集解の王先謙は「與」字であると言い、儒效篇(4)注7の王念孫説と同じと言う。増注の久保愛及び集解の兪樾は、誉は「豫」と通ず、と言う。王説を取るならば、「(類推判断して)隣接する概念にまとめあげて判断する」という意味となるであろうか。久保・兪説を取るならば、「(類推判断して)先のできごとを予想しておく」という意味となるであろうか。久保・兪説に従っておく。

臣道篇は、歴史上の家臣をカテゴリーに分類し、それぞれを高くあるいは低く評価する叙述から始まる。臣道篇において最重要視される倫理は、国家と主君への「忠」である。国家と主君への「忠」をおろそかにする家臣は、たとえどれだけ有能でなおかつ時代の大きな名声を得た人物であっても、荀子によって低い評価が与えられる。臣道篇で主張される「忠」の倫理は、後世の日本人が想定する国家への絶対的献身を称える「忠」の倫理に、大きく近づいている。これは先行する孔子や孟子の倫理にはなかった、新しい時代の正義の規準である。戦国時代末期となって国家が人間を隷属させる領域がますます大きくなり、人民の有能者を官吏として登用しこれを国家に献身させる官僚の倫理がますます要請されるようになって、荀子は国家への献身を正義とする「忠」の倫理を強調するようになった。だがこれは、まだ国家よりも血族集団への所属意識が優先されていた孔子の時代には表面化していなかったし、すでに戦国時代に入っていた孟子においても荀子のような国家と君主への「忠」は倫理として要請されることはなかった。

まず冒頭の緒言において、荀子は合従・連衡策を実現した遊説家の蘇秦・張儀を「態臣」と最低の評価を下し、戦国四君子の一に数えられる斉の孟嘗君を「簒臣」と国家の反逆者とみなし、ようやく斉の管仲・晋の咎犯(孤偃)に対して「功臣」とある程度高く評価して、伊尹と太公望を「聖臣」と最高の評価を与える。彼らが天下・国家の強化と安定にいかに貢献したか、によってランキングが付けられているのである。

しかしながら、荀子は後の時代から結果を見て、歴史上の政治家たちの活動を評価している。荀子が厳しく批判する蘇秦・張儀の外交作戦は、中華世界に絶対的な強国がまだ現れない混沌とした戦国時代中期であったから取られたものであった。蘇秦・張儀の時代には伊尹・太公望のように天下統一を行うことは不可能であり、間に合わせの外交政策で諸国間の均衡を得る政策もまた、一時の外交的安定を得るためにやむえなかった。荀子は後世の結果が見えた地点から彼らを批判しているのであって、彼らが置かれた時代の状況を理解しようとしない。

荀子は戦国時代のたそがれの時代にあったから、こうして過去の政治家たちを天下統一への貢献の有無によって総括できたのであった。戦国時代の終わりにあって荀子が推奨した臣道は、当時の人々にとっての全世界であった中華世界を全て統一した巨大世界政府への誠心誠意の「忠」であった。だが、このような世界政府への「忠」は、人間の身近な周囲の人々と郷里を愛する素朴な心情からはるかに遠く離れている。そのような倫理を必要とするべき巨大な官僚制国家が登場した時代は、果たして人間にとって本当に理想の社会であったのであろうか?

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