哀公篇第三十一(3)

By | 2016年2月21日
魯の哀公が、舜(しゅん。伝説の聖王)の冠のことを孔子に質問した。しかし、孔子は答えなかった。哀公は三度繰り返して質問したが、孔子は答えなかった。哀公が言った、「寡人(それがし)(注1)が舜の冠をあなたに質問しているのに、どうして何も言われないのか?」と。孔子がやっと答えて言われた、「いにしえの王者は、粗末な帽子と衣服を着ている者すらありましたが、その政治は人を生かすことを好んで人を殺すことを憎むものでありました。このような聖代であったので、鳳(ほう。伝説の聖鳥)は樹木の上に止まり、麟(りん。伝説の聖獣)は郊野に遊び、烏鵲(うじゃく。かささぎ)すら人がのぞき込めるような低いところに巣作りをするほどでありました。わが君は、このことを問おうとなされずに、舜の冠をご質問なさる。なので、答えなかったのです。(聖王の衣装に興味を持たれる前に、聖王の政治を知ろうとなさりませ)」と。


魯の哀公は、孔子に質問した。
哀公「寡人(それがし)は、宮殿の奥深くで生まれて、婦人たちの手で育てられた。なので、哀・憂・労・懼・危とはどういったものであるのかを知らないのだ。」
孔子「わが君の問われることは、まさしく聖君の問うことでございますぞ。丘(それがし)(注2)は小人でありまして、とてもそのような問いの答えを知ることができません。」
哀公「あなたでなければ、このことを聞くことはできません!」
孔子「ならば、あえてお答えしましょう。わが君が、ご先祖の宗廟の門から入って右に進み、胙階(そかい。東の階段)から廟内に登り、廟の榱(たるき)や棟(むね)を仰ぎ見て、下を向いて几(つくえ)や筵(むしろ)を見たときに、建物や調度は昔のままであるのに、君主の側に侍るべき股肱の家臣たちはもういない。わが君がいったんこのことを思われたならば、どうして哀惜の情が起こらずにいられるでしょうか。わが君が夜明け前に櫛(くしけず)って冠を頂いて、早朝から朝政を聴かれたときに、たった一つのことでも理にかなわないことが政務にあったならば、それはいずれ乱に発展する端緒でありましょう。わが君がいったんこのことを思われたならば、どうして憂慮の情が起こらずにいられるでしょうか。わが君が早朝から朝政を聴き、日が傾き午後になって政務を終えて退かれるときに、わが君の朝廷の末席には必ず諸侯の子孫が参内しているのを見られるでしょう(注3)。わが君がいったん彼らの労苦を思われたならば、どうして労苦のことを知らずにはいられるでしょうか。わが君が魯都の四方の門から外遊されて、魯国の四方の郊外を望見なされたならば、滅んだ国家の廃墟が必ずいくつも連なって見られることでありましょう。わが君がいったんこれら滅んだ諸国のことを思われたならば、どうして恐懼の情が起こらずにいられるでしょうか。また、丘(それがし)はこう聞いております、『君は舟、庶民は水。水はすなわち舟を載せ、水はすなわち舟を覆す』と。わが君がいったんこの格言のことを思われたならば、どうして危惧の情が起こらずにはいられましょうか?(わが君は、真摯に政務に励んでおられないから、哀・憂・労・懼・危を知らないなどと言われるのです。これらのことは、政治を真摯に執れば必ず思わずにはいられないことなのですぞ。)」


(注1)「寡人」とは、春秋戦国時代の君主が賢者の前で謙遜して用いた自称。徳の寡(すくな)い人、という意味。
(注2)丘は、孔子の名。自称するときには一般的に名を用いる。
(注3)楊注は、「諸侯の子孫、奔亡して魯に至りて仕える者を謂う」と注する。楊注は、哀公もまた諸侯の子孫であり、いま戒懼して徳を脩めなければいずれ亡命する労苦があるだろう、と解釈している。実際哀公は孔子の死後に魯国から亡命させられるのであるが、それは後の結果から見た後付けの解釈というものである。
《読み下し》
(注4)魯の哀公舜の冠を孔子に問う。孔子對(こた)えず。三たび問うて對えず。哀公曰く、寡人(かじん)舜の冠を子に問う、何を以て言わざるや、と。孔子對えて曰(のたま)わく、古(いにしえ)の王者は、務(ぼう)して拘領(こうりょう)する(注5)者有り、其の政生を好んで殺を惡(にく)む。是を以て鳳は列樹に在り、麟(りん)は郊野に在り、烏鵲(うじゃく)の巢は俯して窺う可きなり。君此を問わずして、舜の冠を問う。對えざる所以なり、と。

(注6)魯の哀公孔子に問うて曰く、寡人は深宮の中に生れ、婦人の手に長ず。(注7)未だ嘗て哀を知らず、未だ嘗て憂を知らず、未だ嘗て勞を知らず、未だ嘗て懼(く)を知らず、未だ嘗て危を知らず、と。孔子の曰わく、君の問う所は、聖君の問なり。丘は小人なり、何ぞ以て之を知るに足らんや、と。曰く、吾子(ごし)に非ずんば、之を聞く所無きなり、と。孔子の曰わく、君廟門に入りて右し、胙階(そかい)(注8)より登り、榱棟(すいとう)を仰視し、几筵(きえん)を俛見(ふけん)(注9)せば、其の器は存して、其の人は亡(な)し。君此を以て哀を思わば、則ち哀將(は)た焉(いずく)んぞ至らざんや(注10)。君昧爽(まいそう)にして櫛冠(しつかん)し、平明にして朝を聽き、一物應ぜざるは、亂の端なり。君此を以て憂を思はば、則ち憂將た焉んぞ至らざんや。君平明にして朝を聽き、日昃(かたむ)きて退き、諸侯の子孫、必ず君の末庭に在る者有らん。君此を以て勞を思わば、則ち勞將た焉んぞ至らざらんや。君魯の四門を出て、以て魯の四郊を望まば、亡國の虛則(きょれつ)(注11)は必ず數蓋(すうがい)有らん(注12)。君此を以て懼を思わば、則ち懼將た焉んぞ至らざらんや。且つ丘之を聞く、君なる者は舟なり、庶人なる者は水なり、水は則ち舟を載せ、水は則ち舟を覆す、と。君此を以て危を思わば、則ち危將た焉んぞ至らざらんや、と。


(注4)本章は、孔子家語好生篇に大同小異の文が見える。
(注5)楊注は、「務は読んで冒となす。拘は句と同じにて曲領なり。言うは冠衣拙朴といえども仁政を行うなり」と注する。楊注は尚書大伝に「古の人、衣の上に冒して句領する者有り」の句があることを指摘する。したがって、粗末な帽子と衣服のこと。
(注6)本章と大同小異の文が、孔子家語五儀解篇において哀公篇(2)の文につなげる体裁を取って置かれている。
(注7)宋本には、ここに「寡人」二字がある。増注は、元本に拠ってこれを削っている。
(注8)楊注は、「胙はと阼と同じ」と言う。阼階は、東の階段。
(注9)増注は、「俛は俯と同じ」と言う。
(注10)原文「則哀將焉[而]不至矣」。以下の憂・勞・懼・危の同型の句と共通して、宋本は「而」字がなく、元刻はすべて「而」が置かれている。集解の盧文弨は、五句すべての「而」字が衍字であるとみなすよりは、これらを「能(よく)」と読むべきであると言う。王念孫は、盧説に賛同している。増注本は「而」字を置かず、集解本は置く。より古い宋本を取る増注に従って、「而」を置かないことにする。
(注11)楊注は、「虛(虚)は読んで墟となす」と言い、また新序に「亡國之墟列」の句があることを指摘する。それを受けて集解の郝懿行は、「則」は「列」の誤であると言う。これに従う。
(注12)原文「必有數蓋焉」。楊注は、「有數蓋」は「蓋有數(けだし数有らん)」の倒置であると注する。増注は、「蓋」字は衍字であるとみなす。集解の盧文弨は、「數蓋」は「數區(数区)」のことと考える。新釈の藤井専英氏は、「蓋は揜(おお)うて、こんもりしたような形のものを指す。、、数蓋は、そのような場所(廃墟の遺跡)が数箇所ある意を示すもの」と注する。盧説および新釈に従い、倒置・衍字とみなさない。

上の二章もまた、家語に類似の文が見える。「君なる者は舟なり、庶人なる者は水なり、水は則ち舟を載せ、水は則ち舟を覆す」の格言は、王制篇にも見える。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です