勧学篇第一(1)

By | 2015年3月25日
君たちは、こうあってほしい―

「学ぶことは、継続しなければいけない。青の染料は、藍の草から採取するものだ。だがその色は、元の草よりも青いではないか。氷は、水から形成される。だがその冷たさは、元の水よりも冷たいではないか。」(君たちもまた、学び続ければますますよい人間となるのだ。努力を怠ってはならない。)

もとの木はたとえピンと張った縄(すみなわ)で計測できるほど真っ直ぐであったとしても、これを曲げて車の輪に仕立て上げると、コンパスの曲線で計測できる円形に加工されるのだ。こうなったらたとえ乾かしても、元の真っ直ぐな形には戻らない。それは、曲げる力を加えたからなのだ。ゆえに、木は縄を使って加工すれば真っ直ぐな木材となり、金属は砥石で研げば鋭利な道具となる。君たちも、同じなのだ。広く学んで毎日怠りなく自己を反省すれば、やがて君たちの智恵は輝き、行いに過ちのない人材となることができるのだ。しかしそのためには、高い山に登って、天の高さを知らなければならない。深い谷に下りて、地殻の厚さを知らなければならない。つまりわが国の長い歴史の中で、これまでわが国の文明を作り出した建設者である先王たち(注1)が残した業績をよく学び取らなければ、学問の効果が絶大であることが分からないのだ。干人(かんじん)・越人(えつじん)・夷人(いじん)・貉人(ばくじん)(注2)は、生まれたときは同じ声で泣く。しかし成長すれば、それぞれの習俗を身につけて異なってしまう。この変化は生まれつきでは決してなく、後天的な教育の結果なのだ。(だから学び教えられることが、人間をどれだけ形作るかがわかるというものだ。)『詩経』には、この言葉がある(注3)。:

おお、なんじ君子よ!
安息を常とするなかれ!
なんじの地位につつしみ励み、
ひたすらに正直を愛せよ!
よく精神を働かせてよく見聞し、
なんじの幸福を助けよ!
(小雅、小明より)

よく精神を働かせるためには、正道と共に歩むのが最高なのだ。
そして幸福とは、(正道と共に歩む智恵によって)禍を受けなくすることが最上なのだ。


(注1)原文は「先王」であり、中華のいにしえの聖王たちのことであるが、より普遍的な意味に解釈するために補って訳した。
(注2)干・越・夷・貉は当時の中華周辺の諸族。
(注3)詩の訳は、新釈漢文大系の解釈によった。下のコメントを参照。
《原文・読み下し》
(注4)君子曰く、學は以て已む可からず。靑は之を藍に取りて、而(しこう)して藍よりも靑く、冰(こおり)は水之を爲して、而して水よりも寒し。木直なること繩に中(あた)るも、輮(たわ)めて以て輪と爲せば、其の曲なること規に中り、槁暴(こうばく)有りと雖も、復(ま)た挺せざるは、輮(じゅう)之をして然らしむるなり。故に木繩を受くれば則ち直く、金礪(れい)に就けば則ち利(するど)く、君子博く學びて日に己を參省すれば、則ち智明らかにして行い過ち無し。故に高山に登らざれば、天の高きを知らざるなり。深谿(しんけい)に臨まざれば、地の厚きを知らざるなり。先王の遺言を聞かざれば、學問の大なることを知らざるなり。干(かん)・越(えつ)・夷(い)・貉(ばく)の子、生れて聲を同じくし、長じて俗を異にするは、教え之をして然らしむるなり。詩に曰く、嗟(ああ)爾(なんじ)君子、恆(つね)に安息する無かれ、爾の位を靖共(せいきょう)し、是の正直(せいちょく)を好み、之を神(しん)にし之に聽(したが)い、爾の景福を介(たす)くと、神は道に化するより大なるは莫(な)く、福は禍無きより長なるは莫し。


(注4)勧学篇の前半部は、『大戴礼記(だたいらいき)』勧学篇とほぼ同一のテキストである(本サイトの(3)末尾までが一致する)。両者の関係については、議兵篇(5)のコメントを参照。

『荀子』という書物は『孟子』に比べると、不遇な扱いを受けて来た。
宋代の朱子学においては異端と決め付けられて、儒学の正統なテキストから弾かれてしまった。有名な詩人の蘇軾(蘇東坡)は『荀卿論』を書いて荀子を「好んで異説をなして譲らず、あえて高邁な議論を立てて後を顧みず、その言葉は愚人の驚くところであり小人の喜ぶところである。子思(しし。孔子の孫であり『中庸』の作者とみなされる)・孟軻(孟子の本名)は世のいわゆる賢人君子である。だが荀卿(荀子のこと)一人だけが『天下を乱す者は子思・孟軻である』などと言うのだ」と批判している。蘇軾は、荀子の弟子で秦の丞相であった李斯がなした悪政は師の荀子に由来するとまで言い、散々である(注)。

わが日本では、荻生徂徠が荀子に一定の評価を与えた。徂徠は儒学を個人の倫理学として学ぶ朱子学の姿勢を斥け、儒学はむしろ「礼楽刑政(れいがくけいせい)」、つまり古代中国の為政者たちが創生した統治のための法律、文化の体系を学ぶことであると、大胆な価値転換を提唱した。徂徠によって、儒学は統治論として読み替えられた。それゆえ徂徠は個人倫理を重視する孟子を批判し、礼楽刑政のシステムを論ずる荀子により好意的な評価を与えたのであった。しかし日本の儒学の本流はやはり朱子学であり、あるいはそのアンチとしての陽明学であり、両者ともに孔子・孟子を称えるが、荀子は顧みられることが少なかった。

その荀子が著した書が、『荀子』である。現在のテキストは、前漢末の劉向(りゅうきょう)が整理した『荀卿新書』三十二篇が唐代にははなはだしく混乱したテキストとなって伝わっていたために、唐の楊倞(ようりょう)がこれを再び校訂して注解を施したものが起源である(元和十三年、818)。劉向の『荀卿新書』はすでに伝わらず、ましてや劉向の整理以前の原型がどのようであったかは、今は知る由もない。どこまでが荀子本人の著作で、弟子あるいは他人の追加がどれだけあったのかも、わからない。その後清代になると朱子学から距離を取って古代文化を客観的に研究しようとする考証学が盛んとなり、ようやく中国での『荀子』研究が進んだ。王先謙の『荀子集解』(光緒十七年、1891)はその成果である。日本では、久保愛(1759-1835)が研究成果をまとめて『荀子増注』(文政三年、1820序)を著した。

こうして正統な儒学から目の敵にされ続けた、『荀子』である。それほどに、世の正義漢たちの神経を逆撫でする書物なのであろうか?

現在手に取ることができる『荀子』の開巻の言葉が、上のものである。私は読んだとき、なんと穏やかで理性に満ちた語り始めであろうか、と感心してしまった。『孟子』の開巻の言葉は、王との対話である。富国強兵を望む梁の恵王に対して、「なんぞ必ずしも利を言わん。ただ仁義あるのみ!」と食って掛かるのである。孟子の戦略は、大王を圧倒してねじふせる言葉の魔力を用いてこれを洗脳し、頂上のトップから理想の改革を行わせようとするものである。なので孟子の言葉は、宗教的な折伏の響きがある。論理は時に飛躍し、たとえ話で分かった気にさせるものである。

しかしながら、この『荀子』の開巻の言葉は、大王へのメッセージではない。この書を開く興味を持った、志ある諸君に対しての語りかけである。この勧学篇が冒頭に置かれていることは、まちがいなく『論語』を意識している。『論語』の冒頭には、「学びて時に之を習う、また楽しからずや」に始る有名な句が置かれている。荀子も参照したことであろう『論語』は、その冒頭に志あって学ぶ者たちへの励ましの言葉が置かれているのである。荀子は、自らこそが儒学の正統派であると疑うことがなかった。それで、『論語』の続編を書くつもりで、学ぶ者たちを励ます言葉を冒頭に置いたに違いない。(荀子のオリジナルな配置が、現行のとおりであったとは限らない。しかしながら、私は少なくとも現行の形に最初に並べた前漢の劉向は、明らかにこの書が『論語』の続編であることを意識していたはずだと思う。)

荀子は、「性悪説」の提唱者であると知られている。じっさい、後の篇にはそのものずばり「性悪篇」まである。人間はしょせん利得を考える欲望的存在が本性であり、善人はその本性を矯正することによって後天的になり得るのである、という主張である(誤解してはいけないが、荀子は人間の本性が邪悪を好む、と言っているのではない。単なる利得を求める利己心が本性であると言うのである)。その主張はいずれ検討するとして、この冒頭の言葉はそんなスレた人間観から発するものであろうか?性悪説と言っておきながら、読む者の自発的な奮起を期待する、熱い励ましの魂があるではないか?これから後、荀子は読む者に対して知性ある立派な人間となることを勧め、人相で人物を評価する当時の風潮を批判し、これを打ち砕け、人間の真の価値は外見にはなく心の中にあるのだ、と喝破するのである。その言葉は、人が善を選んで自己を向上させることを明らかに期待している。これのどこが性悪説なのであろうか?

私は、「性悪説」はあくまでも孔子以来の儒家の主要テーマである「国家をいかに運営すれば平和な統治が行われるか?」という統治論的問題を荀子が考察した際に、人間認識として置いた作業仮説であると考えたい。『荀子』では、中盤以降で統治論が展開される。そこでは、人間は「悪=利得を求める存在」として設定され、その存在をよく誘導して統治する方策が述べられる。国家を統治する方法を考えるときには、統治される対象である人間に幻想を持たず、これを突き放して捉える冷徹さを持たなければならない。荀子は、マクロの社会を考察するときの統治論を考察するための作業仮説として「性悪説」を唱えたのではないだろうか。

他方彼が批判する孟子は、マクロの社会を統治するための政治経済学でもミクロの個人がいかに生きるべきかを勧める倫理学においても、一貫して「性善説」である。ゆえに、ミクロの倫理学では人間は自らの持つ善なる可能性を伸ばして無限の努力を行えば聖人にすらなれると説くわけである。同時にマクロの統治論の領域においてもまた、統治する君主の仁義が最初の一撃となって、それが人間の輪を作って強い国家を作り、さらには天下全体までこれを喜んで推戴するであろうという主張につながったのであった。だが荀子ら後世の理論家から見れば、孟子のマクロの統治論はあまりに粗雑であった。荀子はそれに替えて、人間の本性は「悪=利得を求める存在」であり、そのような人間を統治するためには国家システムを構築して制御しなけければならない、というプランを提示したのであった。この荀子のプランは、人間が利得を求める存在であるという視点に立って、初めて説明することができた。ゆえに彼の性悪説は、マクロの統治論の必要から要請されたものであった。

他方、荀子はミクロの個人がいかに生きるべきかを勧める倫理学を説く際には、孟子と対立する必要を感じなかったはずである。マクロの政治経済学とミクロの倫理学では、おのずから対象が違うのである。この対象においては、この勧学篇のように荀子は人間が善に向かい自己を向上させることを信じている。そしてこの『荀子』を読む者に対しても、そうなってほしいと期待しているのである。最初の勧学篇は、この天下をよい世界を作ることに導くべき志ある者への呼びかけの倫理学である。後に続く諸篇は、志あり学問を積んだ統治者が社会に直面したときに、心がけるべき政治経済学である。『荀子』に収録された両者の議論は、冒頭の勧学篇は読む者じしんへの呼びかけ、続く諸篇は読む者が対象とすべき社会への認識であり、読む段階によって対象が違う。「性悪説」は、後者を対象とした仮説であると読まなければいけない。私は、そう考えたい。

さて、上の訳について、私は原文の「君子」をあえて「君たち」と訳してみた。これは宮崎市定氏が『論語』にある「君子」という言葉は孔子の弟子たちへの呼びかけであることが多く、そういった場合は「諸君」という意味に取ったほうがよい、と提案していることに賛同したものである(宮崎『論語の学而第一』岩波現代文庫『論語の新しい読み方』収録)。荀子は孔子の後継を自任する者であり、この開巻の呼びかけの言葉は志ある者への誘いの言葉で間違いがないだろう。なので、「君子」を「君たち」とあえて訳してみた。そうすると、荀子の熱い励ましの息遣いが聞こえてくる。

後半に、『詩経』からの引用がある。『詩経』は古代中国の詩集であり、孔子の学校ではこれの学習に力を入れていた。宮廷人として、尊敬される紳士として、『詩経』を学んでいることは必須であり、『詩経』を知らない者は教養を疑われた。教養ある者は折にふれて『詩経』から一フレーズを引用して、それで思いの丈を伝えたり、政治的主張を遠まわしに伝えたりする。これが、古代中国における洒落者たちの流儀であったのだ。なので、荀子もまた『詩経』を引用して、学ぶ者にこれぐらいの敷居はまたいで来なさいよ、と言うわけである。今の日本では、このような共通の教養はあるのだろうか?ガンダムで例えるのは、教養とはいえないだろう、、、

詩の原文で、「神之聽之」とある。古代詩の本来の意味を取れば、「神之(これ)之を聽き」と読み下し、「神様が(まっとうな私を)聞き届けてくださる」と訳すべきである。しかしここでは、『新釈漢文大系』訳者の藤井専英氏の指摘に基づいて訳した。荀子は「神」という文字に超越的存在を意味させることはなく、人間の内なる精神、つまりは理性のはたらきを意味させるのが専らである。荀子は、人間が自らの力でできることに限って議論を行うのであり、超越的存在について論じることはない。その点もまた、「怪・力・乱・神を語らず」(論語、述而篇)の孔子と同じくしている。ただ孔子は語りはしなかったが、鬼神への畏敬の心は強く持っていた。それに比べて荀子は、よくも悪くもずっと合理的な考えの持ち主である。ゆえに荀子は、世の人が迷信を信じていることを厳しく批判するのである。


(注)服部宇之吉氏によれば、蘇軾の真意は荀子・李斯の名を借りて王安石・呂恵卿を誹るものであったという(『漢文大系十五巻 荀子集解』収録の「荀子解題」)。しかしながら、宋代の新法批判者たちが王安石を攻撃するために荀子の名を借りて、それが受け入れられたということは、すでに宋代主流の儒者たちの間において荀子とはそういうものであると受け止められていたことを意味しているはずであろう。ましてや、以降の朱子学者たちにとってはなおさらである。

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