大学章句序(4)

投稿者: | 2016年10月4日
《現代語訳》
しかし周王朝が衰退した後は、聖賢の君主はあらわれることなく、学校の政策は行われず、人民への教化はしだいに衰え、社会の風俗は崩れてしまった。この時代に孔子という聖人があらわれたのであったが、彼は君主となり人民の師となる位に立って政治と教化を行う機会をついに得ることができなかった。孔子はここに至って、ただ一人いにしえの先王たちの法を取り上げて唱えて伝え、これによって後世にいにしえの王の制度を示したのであった。『礼記』の曲礼(きょくらい)・少儀(しょうぎ)・内則(だいそく)、あるいは『管子』の弟子職(ていししょく)の各篇は、本来小学(しょうがく)の教えを説いた内容の、後世の残存である。いっぽうこの『大学』篇は、小学の教育が達成されたその後を承けて、大学の教育における明らかな法を示すものである。すなわち外に向けては倫理の大きな骨格を示すものであって、内に向けては倫理の詳しい細目を尽すものである。孔子の三千の門徒たちは、きっと師の説をみな聞いたことであろう。しかしその中で曾子(そうし)の伝承だけが、孔子の本旨を正しく理解していた。よって曾子とその一門は、孔子の説の伝義(でんぎ)すなわち解説を作り、孔子の意図を明確にしたのであった。時代は下り、孟子が没するに及んで、曾子の伝承もついに滅んでしまった。すなわち彼らの著作は『大学』篇として残されたものの、これを知る者はほとんどいなくなった。

孟子が没してから後、知ったかぶりの俗儒どもはテキストを書き写したり暗唱したり、美辞麗句を書き連ねることに血道を上げた。その努力はいにしえの小学の学習に倍したけれども、なんの役にも立たなかった。あるいは異端の虚無学派(老荘思想)とか寂滅学派(仏教)とかの教えが広まり、その高尚な教理はいにしえの大学の教えを上回っていたけれども、中身は空っぽであった。その他にも、権謀術数をめぐらしてただひたすらに功名を得るための説(兵家、縦横家、法家など)とか、世を惑わし民をあざむいて仁義の正道をふさぐ諸子百家とかさまざまな技能の流派とか、そういう輩がめったやたらに次々と現れ出て、連中の邪説のせいで世の君子は不幸にも大道の要綱を聞くことができず、世の小人は不幸にも治世の恩恵をこうむることができなくなってしまった。時代は暗くふさがり、世の中はひっくり返って沈み固まり、五代の衰世に及んで壊乱は極まった。

《用語》
周王朝が衰退した後以下の歴史を踏まえている:BC771年、周の幽王が都の鎬京(こうけい)を陥落させられて死す。西周の滅亡。BC770年、幽王の子の平王が雒邑(らくゆう)に都を移す。以降を東周と呼ぶ。以降の時代は周王朝の権威が失墜して諸侯の群雄割拠時代となり、春秋時代(BC770-BC5世紀後半)、戦国時代(BC5世紀後半-BC221)と呼ばれる。BC264年、秦が東周を滅ぼす。BC221年、秦の始皇帝が中華世界を統一する。
孔子という聖人があらわれたのであったが、、ついに得ることができなかった後世の儒家たちは、孔子は聖人であって、文王・武王・周公の数百年後に現れて彼ら周王朝の聖人たちを継ぐ存在であったと主張した。ゆえに孔子は乱れた東周時代において王として即位して人民を教化するはずの人であったが、当時の諸侯が彼を受け容れなかったために王となれず、やむなくかつての聖人たちの業績を後世に伝える仕事を行い、彼の周囲の弟子たちを教化するにとどまった。このように後世の儒家たちは主張したので、孔子のことは即位しなかった王として「素王(そおう)」と称された。朱子もそのような儒家の歴史観を受け入れている。
曲礼(きょくらい)・少儀(しょうぎ)・内則(だいそく)・弟子職(ていししょく)これらは、日常生活、客への応対、家庭内の作法、師弟の作法といった礼儀の規則を記録した文書である。少なくとも漢代に理想とされた作法であったことはまちがいなかろうが、いつの時代にまで起源を遡ることができるかは、議論のあるところである。朱子は、これら各篇ほかの古文献にある記述がいにしえの礼儀作法であるということを前提として、『小学』を編んだ。
曾氏の伝承曾参(そうしん)は曾子と尊称される、孔子の弟子。孔子より四十六歳若い年少の弟子で、『論語』にその言葉が多くあらわれる。孔子の没後、その有力な弟子たちはおのおのが弟子を持って一門を成したが、曾子は孔子の故国である魯国(ろこく)で一門を成した。彼に始まる魯国の一門から子思(しし)と孟子が現れて、後世の儒家の主流となった。二程子以降、『大学』は孔子の遺書を曾子とその弟子が伝承した書であるとみなし、曾子を道統に位置づけた。
五代の衰世原文「五季之衰」。唐王朝の滅亡(907)から宋王朝の天下統一(960)まで、中華世界は五代十国(ごだいじっこく)と呼ばれる乱世の時代であった。華北に入れ替わりで成立した五王朝を「五代」と呼び、地方政権のうち有力なものを十挙げて「十国」と呼ぶ。

《読み下し》
周の衰うるに及びて、賢聖の君作(おこ)らず、學校の政脩(おさ)まらずして、敎化陵夷(りょうい)し、風俗頽敗(たいはい)す。時に則(すなわ)ち孔子の聖の若(ごと)き有りしも、君師(くんし)の位もて、以て其の政敎を行うを得ず。是(ここ)に於いて獨(ひと)り先王の法を取り、誦(しょう)して之を傳(つた)え、以て後世に詔(つ)ぐ。曲禮(きょくらい)・少儀(しょうぎ)・內則(だいそく)・弟子職(ていししょく)の諸篇の若きは、固(もと)より小學(しょうがく)の支流・餘裔(よえい)なり。而(しこう)して此の篇なる者は、則ち小學の成功に因りて、以て大學の明法(めいほう)を著わし、外は以て其の規模の大を極むる有り、內は以て其の節目(せつもく)の詳を盡(つ)くる有る者なり。三千の徒、蓋(けだ)し其の說を聞かざるは莫(な)し。而(しこう)して曾氏(そうし)の傳(でん)、獨り其の宗を得たり。是に於て傳義(でんぎ)を作爲(さくい)し、以て其の意を發(はっ)す。孟子の沒するに及びて、其の傳も泯(ほろ)ぶ。則ち其の書は存すると雖(いえど)も、知る者は鮮(すくな)し。

是(これ)より以來、俗儒の記誦(きしょう)・詞章(ししょう)の習(ならい)は、其の功小學に倍すれども用無く、異端の虛無(きょむ)・寂滅(せきめつ)の敎は、其の高きこと大學に過ぐるとも實(じつ)無し。其の他權謀(けんぼう)・術數(じゅつすう)、一切以て功名を就(な)さんとするの說と、夫(か)の百家衆技(ひゃくかしゅうぎ)の流の、世を惑(まど)わし民を誣(し)いて、仁義を充塞する所以の者と、又紛然(ふんぜん)として其の閒(かん)に雜出(そうしゅつ)し、使其の君子をして不幸にして大道(たいどう)の要を聞くを得ず、其の小人をして不幸にして至治の澤(たく)を蒙(こうむ)るを得ざらしむ。晦盲(かいもう)。否塞(ひそく)、反覆(はんぷく)・沈痼(ちんこ)、以て五季(ごき)の衰(すい)に及んで、壞亂(かいらん)極まる。

《原文》
及周之衰、賢聖之君不作、學校之政不脩、敎化陵夷、風俗頽敗。時則有若孔子之聖、而不得君師之位、以行其政敎。於是獨取先王之法、誦而傳之、以詔後世。若曲禮・少儀・內則・弟子職諸篇、固小學之支流・餘裔。而此篇者、則因小學之成功、以著大學之明法、外有以極其規模之大、而內有以盡其節目之詳者也。三千之徒、蓋莫不聞其說。而曾氏之傳、獨得其宗。於是作爲傳義、以發其意。及孟子沒、而其傳泯焉。則其書雖存、而知者鮮矣。

自是以來、俗儒記誦・詞章之習、其功倍於小學而無用、異端虛無・寂滅之敎、其高過於大學而無實。其他權謀・術數、一切以就功名之說、與夫百家衆技之流、所以惑世誣民、充塞仁義者、又紛然雜出乎其閒、使其君子不幸而不得聞大道之要、其小人不幸而不得蒙至治之澤。晦盲・否塞、反覆・沈痼、以及五季之衰、而壞亂極矣。

上の序のくだりには、朱子の儒学史観がはっきりとあらわれている。

まず、孔子の位置付け。すなわち孔子はいにしえの先王たちが建てた中華正統の法を正しく受け継ぎ、これを後世に伝えた聖人であり、即位できなかった王すなわち素王である。孟子は、孔子を中華史上最高の聖人として持ち上げ、過去の聖人たちの集大成として称揚した(公孫丑章句上、二あるいは萬章章句下、一)。荀子は、孔子を先王と同じ聖人であるが即位できなかった存在とみなす(非十二子篇)。孔子を聖人・素王とみなす視点は、これら古代儒家の孔子観に由来を持っているもので、朱子たち宋代儒家の独創ではない。しかし老子・釈迦に対抗して中華唯一の正統を体現した聖人として孔子を高く称揚する宋代儒家にとっては、戦後の日本で流行した読み方のように「等身大の孔子を愛する」といった視点は、想定することもできなかっただろう。

次に、孔子の教えを受け継いだ系譜。孔子の三千の弟子たちの中で、曾子(曾参)だけが孔子の正しい教えを受け継いだ。曾子の一門が、孔子の教えに解説を付けて、『大学』篇を作った。曾子の教えは孟子までは受け継がれたが、その後はいったん絶えてしまった。これが儒学の道統(どうとう)論であるが、その起源は唐代の韓愈(かんゆ)にあり、宋代に二程子(にていし)が補強した。韓愈は、先王の道が孔子に受け継がれ、孟子が孔子を継いだが以降は絶えてしまった、という道統の歴史を論じた。二程子は、『大学』を孔子の遺書を曾子とその一門が伝えて解説した文章であると主張して、『大学』を道統を伝えるテキストとして位置づけた。以上の道統論に私は大いに異論があるが、朱子はこれを前提としているので、いまはこれに沿って読むしかないだろう。

次に、いにしえの時代の大学・小学の教えの内容。朱子は、これまでのくだりで言明されたように、『大学』はいにしえの大学校の教えの要諦であるとみなす。朱子はさらに小学校の教えについてもいにしえの時代には『大学』と同じく指針があったはずである、と想定した。そこで、朱子とその弟子は、上のくだりにあらわれる『礼記』の各篇、あるいは論語ほかの儒家古文献にあらわれる礼儀作法のくだりを集成して、『小学』という初学用の礼儀作法集を編集する作業も行った。朱子学の定める学問のカリキュラムにおいては、『小学』もまた必須テキストの一つとして組み込まれ、初学者は礼儀作法の教えとして学ばなければならないとみなされた。このあたりの朱子の主張は歴史学的な検証にとても耐えられるものではなく、小学の主張は荒唐無稽というほかはない。日本の江戸時代においても、厳格な朱子学者を除けば年少者に『小学』を学ぶことを強要するようなことはなかったようであり、初学者のためには『大学』のほうがはるかに重要視されて、『論語』『中庸』などの四書と並んで素読(そどく)するべきテキストとして位置づけられた。

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