大学章句序(3)

投稿者: | 2016年9月30日
《現代語訳》
このように学校が設立された範囲はとても広く、学校での教え方は、年齢による学ぶ段階と教える科目がとても細かく規定されていた。その上に、その教える内容は、これすべて偉大な王たちが自ら努力実行して心得ることができた教訓に基づけ、なおかつその教える内容は、これすべて人の日常生活の範囲内で行われるべきルールから外れたところに求めることはなかった。これゆえに、かつての時代の人々は、上下みな学んだのであり、学校で学んだ人々は、善なる「性」が持っている美徳を知り、なおかつ与えられた職がなすべき役目を知って、おのおのがしっかり励んでおのおのの力を必ず尽くしたのであった。これがいにしえの栄えた時代において、上に立つ者はよく治世を実現させ、下にある者は美しい風俗を保った理由であり、後世にはとてもよく及ぶことができなかった。

《用語》
善なる「性」が持っている美徳を知り、なおかつ与えられた職がなすべき役目を知って原文「其の性分(せいぶん)の固有する所、職分の當に爲すべき所を知りて」。小学校・大学校の学習を経て、統治する者と統治される者とに分かれる。『大学』本文には、「人の君と爲(な)りては仁に止まり、人の臣と爲りては敬に止まり、人の子と爲りては孝に止まり、人の父と爲りては慈に止まり、國人(こくじん)と交わりては信に止まる」(伝三章)「未だ上(かみ)仁を好みて、下(しも)義を好まざる者有らざるなり」(伝十章)などの言葉がある。置かれた上下の立場に従って、仁・敬・孝・慈・信・義といった心中の善なる「性」を発揮するであろう。原文の「性分」「職分」はそのような意を指していると思われる。

《読み下し》
夫(そ)れ學校の設(もうけ)、其の廣(ひろ)きこと此(かく)の如く、之を敎うるの術、其の次第・節目(せつもく)の詳(つまびら)かなること又此の如きを以てし、而(しこう)して其の敎を爲す所以(ゆえん)は、則ち又皆之を人君の躬行(きゅうこう)して心得せるの餘に本(もと)づけて、之を民生日用の彝倫(いりん)の外に求むるを待たず。是(ここ)を以て當世(とうせい)の人、學ばざるは無く、其の焉(ここ)に學ぶ者は、以て其の性分(せいぶん)の固有する所、職分の當(まさ)に爲すべき所を知りて、各(おのおの)俛焉(べんえん)として以て其の力を盡すに有らざるは無し。此れ古昔(こせき)の盛時の、治は上に隆(さか)んに、俗は下に美にして、後世の能く及ぶ所に非ざる所以なり。

《原文》
夫以學校之設、其廣如此、敎之之術、其次第・節目之詳又如此、而其所以為敎、則又皆本之人君躬行心得之餘、不待求之民生日用彝倫之外。是以當世之人、無不學、其學焉者、無不有以知其性分之所固有、職分之所當爲、而各俛焉以盡其力。此古昔盛時、所以治隆於上、俗美於下、而非後世之所能及也。

朱子は、いにしえの黄金時代の教育を述べて、教育制度が王朝の社会秩序安定の根幹にあったと言うのである。各人は、それぞれに置かれた社会的地位の範囲内で、己のなすべきことを尽す。それによって、統治者は仁に被統治者は敬に、親は慈に子は孝に、人間が「性」として持つ美徳を発揮して美しい社会が作られるだろう。いにしえの時代の繁栄には、そのような秘訣があったのだ。それが朱子のビジョンであり、孔子・孟子・荀子ら古代の儒家の理想国家のビジョンと何ら変わるものではない。

しかし朱子もそうであるが、儒家思想の描く理想国家においては、たしかに上は上らしく下は下らしく振る舞う上下の秩序の道徳が正しい道として教えられる。しかしながら、小学校・大学校の制度の説明においてもあらわれていたように、高等教育は身分に関わりなく優秀な子弟を集められて、国家の人材を広く選んで育成することが行われる。なので身分秩序は閉じた階層ではなく、政治を行える人材は広い階層から上昇していくことを許す制度であった。荀子は、「賢能は次(じ。身分)を待たずして舉げ、罷(ひ。怠け者)・不能は須(しばらく)を待たずして廢し、王公士大夫の子孫と雖(いえど)も禮義に屬(はげ)むこと能わざれば、則ち之を庶人に歸す。庶人の子孫と雖も、文學を積み身行を正しうし能く禮義に屬めば、則ち之を卿相・士大夫に歸す」(王制篇)と言うのである。だから中華王朝の科挙の制度は、古代儒家思想の主張を人材登用の面で具現化したものであったといえるだろう。もっとも科挙で及第するためには予備の勉強が必要であり、それは富裕な子弟でしか与えられることができず、貧家の子弟が科挙の難しい試験を突破することは針の穴を通るよりも難しいことであった。なので科挙の制度といえども教育の機会均等は捨て置かれ、いにしえの理想の教育からははるかに遠かった。

江戸時代の日本は朱子学を導入して熱心に学んだが、人間は全て平等な「性」を持っていて国家の人材は身分に関わりなく優秀な子弟を登用するべしという、朱子学ひいては儒家思想にとって肝心な主張をついに具現化することがなかった。朱子学の身分に応じた善をなすべし、という表側の教えだけを都合よく用いて、その身分は能力ある者が選ばれて昇進するのが理想である、という裏側の教えをまともに取り上げることができなかった。それが、江戸時代日本儒学の限界であった。この課題は、明治維新以降になって取り組まれることになる。

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